鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察
NO 36
追加検討 私はそのほかに“製鉄に必要な炭の原料”即ち“木材”も含まれるのではないかと考え ているが後の検討事項にしたいと述べた。そうであるか否か多少追求してみたい。 その様に考えた理由は、数百年間にわたりかなりな量の“鉄”を生産し続けるには、その 燃料となり還元剤となる“木炭”、その元である“木材”が、半島南部の伽耶地方・新羅・ 百済の森林で賄えたか?特に莫大な量の“鉄”を生産しただろう4~5世紀は、高句麗南下 の状況下で、さらにこれも燃料として多くの木材を必要とする、高温焼成土器の生産も盛 んであった時期にあたり、燃料不足が問題になったのではないかと考えたからである。 それだけに燃料に加工する“木材”は交換品として価値があったと思われる。筏を組んで 海を渡ったのではないかと想像する。海と河を交通手段とし供給されたと考える。 その時期、半島から鍛冶師が或いは土器作り職人が渡来する背景は、戦乱が原因だけでは なかったのではないかと推測する。朝鮮半島の当該地域の植生は、南部の一部に暖温帯照 葉樹林がある他は、冷温帯夏緑広葉樹林となっており、わが国の西日本地域と同様である。 が、山林の回復力はどうか?花粉帯と植生での考察をみると、4,000〜4,500年前の減暖期 からは照葉樹林帯ではカシ亜族、シイノキ等の冷温帯針葉樹が進出、温帯ではブナ・ナラ 属林等亜寒帯林の進出が見られるが、1500年前位の歴史時代に入ると人類の森林破壊が始 まり、アカマツ林や草本低木類に変わってくるという。[註13] “木炭”は鉄原料に比べ比重が軽いだけ容量がかさみ、遠くから搬入することが出来ず、 “木炭”は出来るだけ製鉄場に近い所で生産する必要がある。たたら製鉄が盛んに行なわ れていた中国山地地域に「粉鉄7里炭3里」と言う俚諺がある。[註14] 忠清北道鎮川郡徳山面石帳里のA-4-1号炉は長さ2,5m、幅0,5m、高さ不明の大型長方形 箱形炉と推定される3〜4世紀代の製錬炉である。鉄の生産量とそれに必要な諸材料の量は 遺跡からは分からないが、日本の近世たたら吹製鉄の間接法(銑押し)ではヒ(けら)3ト ンの生産に対し木炭10〜13トン、森林面積にして約1ha分であるらしい。ヒ3トンから とれる鉄素材としての鉄は約2トンと考えられる。中国山地地域では、1ケ所の製鉄場での 操業は年間60回程度であり、山林面積は1,800〜3,000haに達していたという。[註15] 樹齢は30〜50年が適当で継続して操業するには、かなりの山林を確保しなくてはならない。 例えば30年物を利用するとして、30年後もその近辺の地で製鉄を行おうとすれば、1ケ所 の製鉄場で約54,000haから90,000haの森林を確保する必要がある。 大型長方形箱形炉や縦型炉での生産効率はどの位だったのだろうか? 当時、朝鮮半島で必要とされる鉄の生産量がどの位であったかは想像も出来ないが、現在 の韓国の総面積は99,000?で、当時山林を利用できた範囲を忠州以南と仮定すると約50%、 山地比率65%とし、その内利用可能森林を60%と仮定すれば、山林面積は約1,930,000ha。 この数値(かなりいい加減だけど、それでも)からすると現地で充分賄えたと考えられる。 また考えてみれば、“途轍もなく多量な鉄器”と表現してきたが、この時期ではそれらを含 36
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