鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察
NO 35
そうした中で“途轍もなく多量な鉄器の副葬”の意味は“巨大古墳築造”とセットとなり、 彼らの天下統一決意の表現であると同時に、他勢力に対するデモンストレ−ションでも あったと考える。瀬戸内からの墳丘の見栄えは他を圧倒するものであっただろう。 「大和6号墳」の膨大な“鉄?”の出土状況は、遺骸埋葬のない副槨内で、敷き並べられ た状態で出土している。同じく敷き並べられた状態は棺の下部ではあるが、朝鮮・皇南洞 破壊古墳・福泉洞11号・同22号墳に見られるが、その解釈を鉄?の財宝的・貨幣的性格 から被葬者を安泰させる思想があったものとされる、と同時に、鉄?は威信財としてその 膨大な量をもって他を圧倒したものと思われる。と言うが[註10]、 墳形からは多量副葬は 想像出来ないし、副葬した内容をどの様に知らしめたのか?主墳と陪塚の築造は同じ時期 だろうか?その時どんな人々が参列したのだろうか? 墳墓は全て寿陵と思われるが、大王の埋葬される順序と、連続して築造される巨大古墳の 工期を考え合わすと、それらを決定する時期と、其々の被葬者のその時点での立場と墳墓 の大きさ等の関係は理解に苦しむ。予め継承者の順番が決まっていたのか? しかし『日本書紀』や『古事記』によれば、各天皇の即位について円満に継承された例は少なく、 武の即位についてもライバルである皇位継承の有資格者を全部殺害して天皇位についたことに なっている。どう解釈したらよいのか? 前方後円墳の規模に対する考え方が当時の人々は違っていたのか? あるいは大王の首長権継承の儀式は当時なくなっていたのだろうか? しかし、どう考えても巨大さの持つ意味は古今変わらない価値観だと思われるが・・・ 王権継承の裏にはどの様な実態があったのだろうか? この時期この地域の副葬品のもつ意味を考えるためにも、その実態を解明したいと思う。 おわりに 先に、“途轍もなく多量な鉄器の副葬”の意味は “彼らの天下統一決意の表現であると 同時に、他勢力に対するデモンストレ−ションでもあった“と述べたが、そうであれば “予め大和中心勢力内での取り決めがあった”ものと解釈しないと理解できないし、“予め 中心勢力内での取り決めがあった”と仮定すると、その中心勢力内の組織(政権と言って いいか)とは、どの様な内容・仕組みを持っていたのか? これ以上は考古学的資料をもって想像することしか出来ないが、そうは言っても大王墓の 解明さえ成されていないのだから、その実態を想像することはまだ荒唐無稽かも知れない。 “鉄?”の出土状況からの考察も続けたいと思うが、今回のレポ−トはここで筆を置く。 35
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