鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察

NO 33


私は基本的に古墳の副葬品は被葬者が生前、交易により取得したもの、中には職人を抱え

作らせた自家製のもの、大和王権から贈られたもの、地域の王権から入手したものである

と考える。本来副葬品は被葬者の生前の所有物である。

墳形・規模は被葬者の経済力によると考える。 “鏡”に関しても同様と思うが、“鉄製品”

に関しても交易に関係する人々がいて、商品として流通していたと考えることも出来る。

その方がいつの時代にも人間社会の営みとして容認出来る。

 

途轍もなく多量な鉄器が副葬される時期は「倭の五王」の時代である”ことは疑いない

事実と思われるし、“途轍もなく多量な鉄器が副葬されていた”という事は、その時期それ

以上の鉄製品を保有し、未発見分を加えると膨大な量の鉄製品がその地域に存在していた

と考えられが、被葬者の所有物全てを副葬する慣わしであったとも考えられるので少なく

とも被葬者の生前中に於いては、と考えた方が良いかと思う。

その時期を過ぎれば途轍もなく多量な鉄器の副葬もなくなるからである。

さて、問題はこれらの鉄の生産地が5世紀半ばまでは朝鮮半島南部にあり、例えば6期の

「ウワナベ古墳」の陪塚・「大和6号墳」の膨大な“鉄?”も朝鮮半島南部洛東江下流域の

金海一帯からもたらされた可能性が高いと言う。[10]

朝鮮半島と倭の関係をみてきたように、当時日本書紀』が言う意味の任那日本府はありえず、

これらの鉄製品は、交易品ないし一部は贈答品として手に入れた物と考えられる。

ところで大和を中心とした勢力が膨大な量の“鉄製品”を手に入れるには、何が交換品

或いは対価になったのだろうか?対価として支払うものは“鉄“では有り得ないので、倭

に豊富に存在し、かつ半島で必要とされるものとは?倭製の特徴があり後世まで残るもの

であれば何らかの形で、何処かで出土すると思われるがその形跡が無い、あっても量が少

ない物は対象ではないと考えると、使って無くなる物と考えざるを得ない。

単純に考えれば生活必需品である“コメ”、“穀物類”、“麻布”、“塩”、“海産物”

等がある
し、“ある種の金属”、“ヒト”等も考えられる。

私はそのほかに製鉄に必要な“木炭”の原料、即ち“木材”も含まれるのではないかと

考えているが、後の検討事項にしたい。

一方、大和盆地や河内平野でのコメの収穫量はどの位有っただろう。余剰米としてどの程

度確保されただろうか?後世の“慶長期の石高”をみると、大和・河内・摂津の多くは天

領ではっきりしないが、天領以外では約27万石位である。[11] 

また少し前に当たる慶長三年の秀吉の蔵入地分布によれば大和・河内・和泉三国で83,3

石の検地高となっている。[12]  当時の生産量を推測する事は難しいが、まだ灌漑施設も

整っていない時期の“米”を経済基盤と考えると、巨大な古墳群を造営し続け、その上

鉄製品等の交易の対価を支払い、一方で蓄財するということは、何れにせよ地域内の収穫

物で賄うことは不可能であると思われる。

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