鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察
NO 31
もっとも『日本書紀』の紀年は必ずしも確かではないが、しかし『宋書』によると、倭国王武は478年 に宋朝に遣使上表しており、その活躍の時代はほぼ『日本書紀』の紀年に合致している。 また前王の興(安康天皇)が遣使して、安東将軍倭国王に除されたのが462年であり、『日本書紀』 が安康の治世をわずか三年とすることをあわせ考えれば、やはり辛亥年(471)が雄略の治世に入 る事は、まず確実といいうる。・・・・・・・・[註 9] 以上のような論法である。 「辛亥年」と「ワカタケル大王」を以って、その時代を規定することは出来ないと考える。 “大和の勢力が既に関東から九州までほぼ日本全国を勢力下に置いていた”という解釈は、 この二点からでは成り立たない。成り立たない“勢力下に置いていた”ことを理由にした “古墳に副葬されている鉄製品は大和政権からの配布物だ”とする説も成り立たない。 “古墳に副葬されている鉄製品は大和政権からの配布物だ”という考え方の基本は、当時 “倭の王権”即ち“大和政権”が半島からの鉄素材の独占的獲得権と、鉄器加工技術に支 えられた鉄器再生産システムを持っており、従って地方の首長はそのシステムの中に組み 込まれていただろうという事にある。[註 3] それを証明する考古学的考察として、? 前方後円墳は大和で発生した。? 大古墳の築造者 は小古墳の築造者を支配した。? 古墳の形や規模・副葬品に大和王権の身分制度が反映して いた。というものがあげられる。7〜8世紀以後の政治状況や文献に影響され、既に4〜5世紀の 実態をも大和が中心であると解釈し解説するのは、少々安易過ぎるのではないかと思う。 大和王権が各地の首長との連合・制圧を繰り返し、徐々に広範囲に権力を確立していくと いう、真に納得出来る過程を丁寧に地域毎に検証を重ね、全体の歴史を復元する努力が望 まれる。4〜5世紀はまだその過程にあると思うが、考古学的資料で何処まで解明出来るだろう か? “副葬される鉄器”は弥生時代からも見られるし、これまで述べたように古墳時代に 入る段階からも寡多の違いはあるにせよ全国的に見出せる。 “途轍もなく多量な鉄器が副葬されていた・その意味するところは何か?”を考える場合、 4〜5世紀(特に3〜7期にあたる)全国各地の古墳に埋葬される被葬者が、どの様にして “鉄製品”を取得していたか、その方法と背景について解明する必要がある。 文献に出てくる不確実な記載をもとに考える方法もあるが、真実には程遠い感じがする。 即ち、「日本書紀」には以前の歴代の天皇から続けて百済や伽耶諸国から大和王権に貢物が 納められていたと言う記述である。この貢納物が“鉄”という見方もあるが、貢納制その ものが真実であるという必然性は認められない。一部は贈答品としての“鉄製品”があっ たかも知れないが、取得方法としては交易が殆どを占めていたと思われる。 倭国内の被葬者層の“鉄製品”の取得方法が大和王権との関係だけにあるのか?或いは 31
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