鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察
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5章 鉄製品の取得方法とその背景 埼玉県行田市稲荷山古墳や熊本県菊水町江田船山古墳出土の、銘文入り鉄剣の大王名を “ワカタケル大王”と読み“武”に比定し、稲荷山古墳の鉄剣銘の「辛亥年」を471年と 解釈し、大和の勢力が既に関東から九州までほぼ日本全国を勢力下に置いており、従って “古墳に副葬されている鉄製品は大和政権からの配布物だ”とする説が大勢を占めている。 しかし、中国側資料の“武”と、日本側資料「古事記・日本書紀」の天皇名“オオハツセ ワカタケル天皇“を結びつける事には、どうしても二つの無理がある。 一つは「古事記・日本書紀」の著された時期は、文字のない期間を経過した200年も後の ことであり、その名の信憑性に疑問が持たれる事、二つは「辛亥年」を471年とするなら ば、武の時代ではなく一代前の“興”の時代と思われるからである。興の即位年は462年 か多少前であり、武の即位年は477年か478年か或いは多少その前であり、471年には まだ即位はしてないと考える方が妥当である。もし既に即位をしていれば先に記した様な 国際情勢の中で、あのような上表文を478年まで出さないことの方が不自然であるからで ある。しかし、“武”と呼ばれる人物と“・・・・大王”と呼ばれる人物がいたことは、 どうも真実のように思う。時期に関しては「古事記・日本書紀」の年紀の正確さに問題が あると思われるので、この二つの資料を簡単に結びつけることは学問的ではない。 多くの文献学者またその説を利用する考古学者の見解は、日本書紀の記述と合わない所は、 中国の文献を曲げて解釈し、またそれを日本書紀に反映させ、いつの間にか真実らしく 解釈しているし、“そうであるならば”とか“認められれば”とか言って自説を上積みする “言”が多く、本人の基本資料に対する再検討が成されていないケ−スが目に付く。 例えば、稲荷山鉄剣と江田船山鉄剣に関して言えば・・“ここで当面問題になるのは、その 「辛亥年」という年紀と「獲加多支鹵大王」の文字である。この二つは、この銘文を理解 するうえでの鍵となるものであるが、まずワカタケル大王は『日本書紀』に大泊瀬幼武天皇、 『古事記』に大長谷若建命、『宋書』や『南斉書』『梁書』に倭(国)王武と記される雄略天皇のことと みてよい。オオハツセワカタケルのオオハツセは、「記紀」に伝える雄略の宮居の所在地、大和の 泊瀬の地名にちなむものであるので、その本来の名はワカタケルであり、また中国史料にみえる 「武」が、そのタケルの語義をとったものであることは古来の定説となっている。次に「辛亥年」であ るが、これについては『稲荷山古墳鉄剣金象嵌銘概報』の「解説」に、それがたんに銘文作成の 年時を示すだけでなく、この鉄剣製作の依頼主であるヲワケが仕えたワカタケル大王の治世も、 そして鉄剣製作の年時も、みな同じ時期であるとする理解が示されている。異を唱える論者もある が、文章的にみて、そのように読むのがもっとも自然な読み方であろう。とすると、この「辛亥年」は 471年のこととみなければならない。以下「解説」の記述を踏まえて説明を加えると、まず 『日本書紀』は雄略の治世を456〜479年のこととしており、干支が辛亥にあたる年でこの時代に 該当するのは471年をおいてほかにはない。 30
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