鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察
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がある“七支刀”が、奈良県石神神宮に所蔵されている。まさにこの時期、百済は倭の 軍事的協力を得んと願い贈ったものと思われる。倭王讃の前代の大王達にとっても、百済・ 伽耶諸国からの先進文物・必需物資(特に“鉄”と思われる)の安定的確保は願っても 無いことであり、ここに百済・伽耶諸国・倭の軍事同盟が結ばれたものと思われる。 その事は「広開土王碑」碑文によっても裏付けされる。その碑文の中には、391年・396年・ 399年・400年・404年の記述中に9回ほど倭に関する文字が見受けられる。[註 7] その内容は兎も角、その頃倭兵が半島で戦っていた事は事実で、やはりこの軍事同盟以後、 伽羅(特に金官伽羅=任那)の地に倭の軍が常駐するようになったのではないかと思われ る。おもに百済と提携し、さらに安羅や任那加羅などいわゆる伽耶諸国とも連動して、 高句麗と関係の深い新羅に侵入し、あるいは高句麗領に等しい帯方まで侵攻している。 倭は一貫して高句麗の南下策また対新羅策、両国の百済策に対抗する動きをしている。 単独での軍事行動はとらず、百済・安羅・任那加羅などと共同して戦っているようである。 「倭の五王」たちの時代の高句麗の王は、全て広開土王の息子である長寿王の時代であり、 二王で高句麗の最盛期を作り上げた正にその時に当たる。父の功績を記した「広開土王碑」 を建てた長寿王本人の記念碑は、朝鮮半島の中央部よりかなり南方の中原(忠清北道・忠 州近郊)に「中原高句麗碑」として現在も残っている。 「倭の五王」たちが「南朝宋」に貢献し、その冊封体制に入ってまで得んとしたものは、 半島での立場を維持・強固にするための名分と倭国内における主導権確保の証であろう。 高句麗との確執がある中で、半島での国際的地位はいつも高句麗・百済の方が高く、対抗 するために代々努力しているさまが「宋書」・倭国伝から読み取れる。そして高句麗と同じ 立場が得られないと分かった時、武は中国の冊封体制からみずから決別していく。 大和・河内・和泉の大古墳群中に、途轍もなく多量な鉄器副葬がされる時代は、中国・ 朝鮮半島と概略このような背景のもとにあったと考えられる。 その後の倭と半島との関係は、「日本書紀」によれば、国内的には清寧・顕宗・仁賢・武烈・ 継体と続くが、継体に至って新羅をはじめ朝鮮諸国の国力が高まり、しばしば軍隊を派遣 したが、朝鮮での勢力は次第に衰え、512年に任那の四県(上??・下??・婆陀・牟婁) を百済の要請に応じ割譲したと言う様に、半島から勢力後退を余儀なくされることになる。 そして527年、任那復興のため近江毛野を兵6万と共に遣わすが、筑紫の国造・磐井の妨 害に遭い、翌528年磐井を滅ぼすが、翌529年任那復興に失敗、新羅に任那四村(金官・ 背伐・安多・委陀)を占領される。537年任那救援に大友金村の子磐・狭手彦を送り任那を 鎮め百済を救い、543年百済聖明王に任那復興を要請し、翌544年百済・任那・日本府は 任那復興を議っている。562年新羅により任那宮家は滅ぼされるが、以後も百済・新羅・高 句麗との関係は続く。・・・・[註 8] 29
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