鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察

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しかしにいたると、みずから使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国

諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、堂々たる駢儷体の漢文による上表文を奉って、自称

の開府儀同三司と他の官爵の除正を求めた結果、百済を除かれ使持節都督倭・新羅・任那・

加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王に除正された事は、既に倭王・

地域内に限らず広い範囲で1段と強力な権力を確立したものと思われる(但しその範囲に

ついてはよく分からないが、武の上表文を信じればかなりな範囲と思われる)。

そのことはは有力者に対する階級の除正を「宋王朝」に求めているが、は自らが

除正することを宣言していることからも、の立場の変化が想像される。

一方以降、使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍を称

し、にいたると使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東

大将軍・倭国王と称すると同時に、開府儀同三司をこの時期要求した事は、彼らの前代の

大王の頃からの朝鮮半島との関係で言える立場、また言わねばならない事情があったから

と思われる。

その前後の中国・朝鮮半島と倭(特に大和)との関係について簡単に考察しておきたい。

 

4世紀後半(倭では前方後円墳編年34期)の朝鮮半島は、三国時代に入ったばかりで

北に強国高句麗があり、その南に建国間もない新羅と百済が東西に並び、南端に伽耶諸国

が新羅・百済両国に挟まれる様に連なっていた。半島南部の地は弥生時代から交流があっ

たがそれらは北九州の勢力であり、金海の良洞里遺跡の23世紀を中心とした墳墓群から

出土した倭系遺物は、小型?製鏡や中広形銅矛などで弥生後期の北部九州で製作されたと

みられるものが多い。が、4世紀代の同じ金海の大成洞遺跡や東莢の福泉洞遺跡などの墳墓

から出土する巴形銅器・碧玉製石製品などの倭系遺物は、大和の古墳から多く出土する

遺物である。これは34世紀の間に、伽耶地域との交流の当事者が、北九州の勢力から

大和地域の勢力へと転換したことを示していると考えられる。特に4世紀前半から5世紀

の前半にかけての金海・釜山を中心に、慶州・馬山などの地で土師器系(布留系)土器が

出土していると言うことは、倭人(特に大和系)の集団的移住があったと思われる。

 

313年頃高句麗は“晋”の衰退を機に楽浪・帯方両郡を滅亡させるが、それによって遼東・

遼西に勢力を伸ばした“前燕”に342年大敗し、高句麗の故国原王は楽浪郡の故地である

平壌に拠点を移し、南方に活路を求めることとなった。

4世紀後半に本格化する高句麗の南下政策は、新興国の百済・新羅や伽耶諸国、さらには

倭国をも巻き込む半島最初の動乱期を迎える。百済と高句麗は激しく対立することになり、

371年、百済の近肖古王は太子と共に高句麗の平壌城を攻め、そのため故国原王は戦死する

ことになる。高句麗に対抗するため百済と伽耶諸国は同盟を結ぶが、倭国にも働きかける。

そのような時期の、“369年に造り百済の太子(後の近仇首王)から倭王に贈る”との銘文

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