鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察

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日向「下北方5号地下式横穴墓」の副葬品は金製垂飾付耳飾・碧玉・管玉・ガラス製玉等

の玉類変形獣形鏡・変形文鏡・横矧板鋲留短甲・角板鋲留短甲・眉庇付冑・頸甲・鉄

剣・鉄刀・鉄鉾・鉄鏃・手斧・鉄斧・轡・鞍金具・鐙・杏葉・馬鈴・三環鈴等が出土する。

 

“途轍もなく多量な鉄器副葬品”が出土する場所は、大和・河内・和泉の大古墳群であり

時期は5期から7期(特に6期)に集中する。かつ大王墓と考えられる巨大な前方後円墳

が連続的に築造されているのもこの地域である。従って「宋書」倭国伝で言う「倭の五王」

達は、やはり大和・河内・和泉いずれかの古墳群内に埋葬された人物と考えざるを得ない。

 

4章「倭の五王」の時代の東アジア情勢と倭

 

古墳の墳形・規模や副葬品の出土量によってこれら“倭王を中心とする大和(近辺)の

勢力が既に列島の政治的統合を実現していただろう“という考え方が定説化しているよう

だ。しかし、数々の古墳とその副葬品について述べたように、これらの地域外でも多量な

鉄器の副葬という現象も、また畿内の巨大古墳にも劣らぬ巨大古墳の築造もこの時期中に

見る事が出来るのも事実であり、中国「宋王朝」から倭国王と認められた人物達が、倭国

全体を支配していた王か(即ち大和の王権が既に列島統合を果たしていたか)どうかに

ついては疑問に覚える。「宋書」倭国伝の記事からもその様に推測しうる。 

 

438が使いを遣わして貢献し、みずから使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓

六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、上表文を奉って除正を求めたが認められず、唯

の安東将軍・倭国王に除された。と同時に倭隋ら13人の平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号

への除正を求めこれは認められた。除正を求めた人物はである。

443年同じく安東将軍・倭国王のみとされ、451年になって安東将軍・倭国王に加え、

使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事に除正されたが、同時に上表し

23人にも将軍号・郡太守号を仮授したことが記載されている[ 5]

“並びに上る所の23人・・・”に関し、とは別に23人が上表した人物とする説がある

[ 6] の事例と同じく、451年にが改めて「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・

秦韓・慕韓六国諸軍事」の除正を求めた時に、23人の除正も同時に求めたと考えられる。

除正を求めた人物はであろう。但し珍の13人から済の23人に増えた事は注目に値する

の安東将軍号と倭隋らの平西将軍号のランクは同じランクであり、もまた同様でその

頃の倭王は、国内の有力者からさほど超越した地位ではなかったことを示していると思

われる[ 2]  が、しかし巨大古墳及びそれらを取り巻く陪塚と思われる古墳群の存在、

経済的に優位であったであろう首長層の墳墓も、また大和・河内・和泉を中心に多く存在

していることは、地域内に於いて強力な権力体制が存在したと認めなくてはならない。

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