鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察
NO 2
「宋書」本紀及び夷蛮伝・倭国(倭国伝)に記された各倭王の遣使年代は、讃が421年・ 425年・430年、珍が438年、済が443年・451年・460年、興が462年・477年?武が 478年の計10回と思われる。史実とはみなし難いが 武に関してはその後の「南斉書」に 479年、「梁書」にも502年の記事に名が記されている[註 1]。従って讃・珍・済・興・武 各倭王は5期から7期〜8期初頭のこれらの古墳群内に埋葬されたものと考えられる。 しかし現在の天皇陵は、讃は百舌鳥古墳群中、6期の全長468m「大山古墳」に、珍は同じ く百舌鳥古墳群中、7期の全長148m「田出井古墳」に、済は古市古墳群中、7期の全長 230m「市野山古墳」に、興は佐紀古墳群の南西にある墳長等全て不明の「菅原伏見西陵」 に、武は古市古墳群の西北にある径76mの大型円墳「高鷲丸山古墳」に治定されている。 記されたこれらの年号と考古学的成果から勘案すると、讃の墳墓は百舌鳥古墳群中5期の 全長365mの大王墓「石津ケ丘古墳」(百舌鳥ミサンザイ古墳)であり、珍は古市古墳群中 6期の全長425mの大王墓「誉田御廟山古墳」、済は百舌鳥古墳群中6期の全長486mの 大王墓「大山古墳」、興は百舌鳥古墳群中7期の全長296mの大王墓「土師ニサンザイ古墳」、 武は古市古墳群中8期の全長242mの大王墓「岡ミサンザイ古墳」が妥当である、と私は 考える。唯、これは現在治定されている天皇陵に関して疑問に思っている故の私案であり、 本レポ−トの主題ではないのでこれで筆を置く。 そしてこれらの古墳群の中に、途轍もなく多量な鉄製品を副葬している古墳が存在する。 しかし、それらが築造されたと思われる時期にも、倭国の他の地域において多種・多量な 鉄製品を副葬する古墳も多く存在する。 本レポ−トでは、それら途轍もなく多量な鉄製品の副葬は、どんな時代背景で又如何なる 意味を持つのかを考えてみたい。(地域は旧国名を用いるが、当然当時は不明である) 1章では多量な鉄器を副葬する5期以前の古墳を全国的に古墳時代前期の範囲で概観し、 2章で途轍もなく多量な鉄器を副葬する古墳が存在する大和・河内・和泉地域の大古墳 群中にその実態を、3章で多量な鉄器を副葬する5期以降の古墳について古墳時代中期の 全国的な範囲で概観し、次に途轍もなく多量な鉄器を副葬する時期の時代的背景について 4章で「倭の五王」の時代の東アジア情勢と倭を考察し、それらの鉄器がどの様に取得 されたかを5章で鉄製品の取得方法とその背景として探り、最後に6章にて途轍もなく 多量な鉄器副葬の意味を考えるという順に考察していきたいと思う。 2 |