平成16年度 前期 「日本考古学研究 T」 レポ−ト

鉄器副葬品からみた古墳時代中期の一考察

                           〜途轍もなく多量な副葬鉄器が持つ意味〜       2004/09/14

        040501  倉本 卿介

NO 1


はじめに

 中国の正史「宋書」の本紀及び夷蛮伝(倭国伝)によると、421年(永初二年)から478

年(昇明二年)の57年の間に10回にも及ぶ5人の倭国王の遣使貢献の記録がある。[ 1]

それら倭国王の名前は 讃・珍・済・興・武と記されており、「日本書紀」・「古事記」が

伝える、仁徳・反正・允恭・安康・雄略の各天皇に比定されている。但し、讃については

応神説・仁徳説・履中説、或いは応神・仁徳を同一人格とする説、仁徳・履中を同一人格

とする説、珍についても仁徳説・反正説等々と未だ諸説ありはっきりしない。[ 2]

この時期、倭国においては古墳時代中期前葉〜中期後半と呼ばれる時期にあたり、これら

の倭王は、畿内の佐紀古墳群・馬見古墳群・古市古墳群・百舌鳥古墳群にある大型古墳の

被葬者ではないかと考えられている。しかし残念なことにそれら大型古墳は天皇陵或いは

陵墓参考地として宮内庁の管理下に置かれ、学問的な解明は成されていない。

 

古墳時代を象徴する前方後円墳が最初に完成した形で築造された、3世紀末からの大和・

柳本古墳群に重なるように築造されていく大型古墳群は表1のような消長を示す。[ 3]

 

 歴年代     ?300             ?400             ?500

 

1期

2期

3期

4期

5期

6期 

7期 

8期 

9期 

大和・柳本 

   古墳群

○ ○            

 

 

 

 

 

箸墓

西殿塚

行燈

渋谷向山

佐紀盾列 

  古墳群

 

 

 

 

 

 

◎ ○   

 ○

 

 

 

五社神宝来山

市庭

ウワナベ ヒシ

馬見 古墳群

 

 

 

 

 

 

新山

 築山

巣山

新木山

大塚山

 

古市 古墳群

 

 

 

 

 

 

◎ ○

  ○

津堂城山 

  仲津山

誉田山

市野山

岡ミサ

ンザイ

 

百舌鳥古墳群

 

 

 

 

 

  ◎

 ◎ 

  ◎

 

 

 

石津丘

大山

土師ニサン

表1   畿内五大古墳群の消長   ◎前方後円墳 大王墓か? ○前方後円墳 □前方後方墳



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