帝釈峡遺跡群についての一つのまとめ    2000,07           

                                           CB 120003   倉本  卿介

1,まとめの前に

1)瀬戸内海の概説

瀬戸内海沿岸地方には九州の火山を除いて、第四紀の新しい時代の火山はない。周防灘の姫
島火山、別府市西方の鶴見・由布火山、別府市南西の九重火山は大山火山帯に属し、後二者
は九州をほぼ東西に横断する別府−島原地溝帯内に分布する。

   これらのうち、姫島火山中の黒曜石の生成年代は32万年前とされており、約10万年前と                      

   いう年代値も報告されているがそれ以降の火山活動はなく活火山とは見なされていない。

   鶴見・由布火山は3万5000年以前から活動を開始し、2000年前以降にも溶岩の流出

   を伴う噴火活動があった。鶴見・由布火山は西暦800年代に3回の噴火活動があり、九重

   火山は20数万年前から現世にかけて活動し3000〜4000年前まで噴火活動をしてい

   たらしい。

   一方、東西450kmに及ぶ広大な瀬戸内海。この海の誕生は約1万年前後と地理学的には

   意外と新しいが、それ以前に2回この地域に瀬戸内海の様な海や湖が広がった時期があると

   されている。それらの根拠は主として新生代中新世の中期(約1500万年前)に堆積した

   第一瀬戸内累層群と鮮新世後期(約350万年前)から更新世に堆積した第二瀬戸内累層群

   として、瀬戸内海・中国地方および近畿・中部地方に残っている。現在の瀬戸内海を含みさ

   らに東方の長野県南部に至る地域の新第三紀の地層分布域は「瀬戸内区」とよばれている。

   中新世後期(約1000万年前)になると第一瀬戸内の海が退き、中央構造線沿いの瀬戸内

   区南縁部の様な場所で流紋岩や安山岩の陸上火山活動が起こった。当時の火山岩類は室生層

   群や二上層群として残っており、四国西部では古第三紀の地層を覆っている。鮮新世後期〜

   更新世前期(約80万年前)に瀬戸内区は再び水面下に没した。第一瀬戸内累層群を不整合

   で覆う第二瀬戸内累層群は引き続きの海とは異なり、はじめは東西にほぼ連続した淡水域に

   後になっていくつかの独立した堆積盆地(一部は海域で一部は河川や湖沼としての淡水域)

   からなっていた。その代表は京阪神地方に分布する大阪層群である。その地層は連続性のよ

   い火山灰層を含み、メタセコイアを含む化石植物群がその下部に、ワニがその上部から報告

   されている。さらにステゴドン・エレファスなどの象化石が様々な層群から多く発見されて

   いる。

  

2)広島県域の概要

   瀬戸の朝なぎ夕なぎ、広島の特徴的な風情とは無縁な暮らし、これが現在確認されている

   広島の最古の暮らしである。それは約3万年前ウルム氷河期という本州・四国・九州が陸続

   きで、広島県域は海から遠く隔てられていた時代であった。人びとは佐伯郡吉和村の冠高原

   で安山岩を加工して石器を作り、かってアジア大陸から渡ってきたナウマンゾウやオオツノ

 

   ジカなどを追うハンタ−であった。

     冠高原での石器づくりが始まった頃は氷河期のなかでも一層寒冷化が進み始めた時代であ

    り、2万1000年前頃には火山列島日本の洗礼も受けている。現在の鹿児島県錦江湾奥

    部を火口原とする姶良カルデラの大噴火である。火山灰は東北地方にまで及び、中国地方

    でも20cmの厚さに降り積もった。冠高原でも石器を含む黄灰色の火山灰堆積が確認さ

    れている。最も寒冷な時期は2万〜1万8000年前であった。現在より6〜7度気温が

    低く、降水量も半分以下であったといわれる。

    内陸部となった広島県域は西日本の中で最も雨の少ない地方となり、全般に草原化が進ん

    だがゴヨウマツ属・ツガ属・モミ属などの針葉樹と、カバノキ属などの落葉樹が混生する

   (冷温帯針広混淆林)は食用の木の実を多く供してくれた。

    環境の違いと共に人びとの使う道具にも地方ごとの特色がでてきた。広島県域で使用され

    た国府型ナイフは瀬戸内技法で裂き割られた剥片を加工した石器である。しかしその暮ら

    しは明確でない。彼らが移動する生活を営み、ごくわずかな生活用具しか携行しなかった

    ことが大きな要因である。西ガガラ遺跡(東広島市)では全国的にも貴重な住居跡5棟が

    確認されたが、それは径4m未満で柱10本程度の簡単な住居であった。炉跡や熱を受け

    た礫群が残っていることから、火を使う調理を行っていたことがわかる。

    この時代の遺跡の多くは標高200mを超える山間地に多いが、近年は島嶼部や沿岸部の

    丘陵上でも確認されている。倉橋島の鹿島沖などからナウマンゾウの化石などが引き上げ

    られるので、 この時代は瀬戸内も平原であったことがわかる。国府型ナイフなどの石器を

    使ってこの平原に棲息したゾウやオオツノジカを捕獲したものと思われる。

    1万5000年ほど前から気候は温暖化に転じた。針葉樹全般に衰退し落葉広葉樹や常

    緑広葉樹が優勢となり、それと共に次第に大型獣が減少しニホンジカ・イノシシ等が増加

    した。1万年ほど前には動植物も植生もほぼ現在と同じになった。こうした自然の変化に

    対し、狩猟の道具もナイフ型石器から細石刃・尖頭器ついで有茎尖頭器を穂先とした投げ

    槍、さらに石鏃を矢先とする弓矢へと変化して敏捷な動物も捕獲できるようになった。

    また広葉樹を中心とした植生はトチ・オニグルミ・ドングリ・シイなどの木の実やウバユ

    リ・カタクリ・ヤマイモなどを提供したが、その処理・保存のために土器も利用されるよ

    うになった。生活のスタイルに大きな変化が始まったのである。

    帝釈峡の馬渡遺跡(比婆郡東城町)では、地表から深さ3mのところまで遺跡をそれぞれ

    含んだ5つの地層が確認されている。その最下層の第五層から横剥ぎの剥片とオオツノジ

    カの骨が、その上層ではオオツノジカの骨と植物繊維を胎土に含んだ無紋平底の鉢形土器  

    や安山岩製有茎尖頭器・石鏃が出土し、さらにその上層では早い時期の土器である押型紋

    土器が出土している。特に鉢形土器と同じ層で出土したカワシンジュガイは14C年代測定 

    法で1万2000年前のものという結果がでている。旧石器時代の象徴オオツノジカを捕

    獲する暮らしから、土器や投げ槍・弓矢などの新しい道具を取り入れた暮らしへと移って

    いく過程を具体的に確認できるのである。

    土器はその表面に煤やこげつき、被熱のあとが見られることから一般には植物の煮炊きの

     ために開発したといわれるが、馬渡遺跡の無紋土器は貝の煮沸に使われた可能性もある。

     土器の誕生から稲作や弥生土器が使用され始めるまでの1万年間を縄文時代という。

     この時代は土器の形や文様の変化から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分

     されている。広島県の場合草創期・早期の土器を出土する遺跡は、山間部に多く石鏃や

     石斧など狩りや植物の採集に使う道具が多く出土している。

     一方、現在は海に近い早稲田山遺跡(広島市東区)などでも石族・石斧などが出土し貝塚

     が形成されていない。すなわちこの時期は県全域で自然環境に違いがなく、同じ様な狩猟

     ・採集の生活が営まれていたのである。それは当時の人びとの前に豊かな漁労の場である

     瀬戸の海がなかったことを意味している。

     温暖化についで1万3000年前に海面の上昇(海進)が始まった。

     約2万年前に最も低くマイナス80m程度であった海水面は1万年前にはマイナス40m

     前後になり、しばらく停滞した後さらに上昇し、現在の海水面に近づいたとされている。

     後氷期(約1万年前〜現在)の海水面上昇は、縄文時代にほぼ一致することから「縄文海

     進」と呼ばれている。海水面は縄文時代前期の約6000年前に現在より数メ−トル高い

     水準まで上昇し、現在の海岸線よりも内陸部に貝塚を生じさせる原因となった。海岸線が

     現在より内陸側に顕著に後退したのは、大阪平野・岡山・広島・徳島で、その他のところ

     では海岸線の後退は顕著ではなかった。

     この縄文海進によって、現在の防予海峡や備讃海峡方面から海水が低地を満たすようにな        

   り、瀬戸内海が次第に姿を現しはじめたのである。

   地御前南遺跡(廿日市市)や重井遺跡(因島市)で、海水面より下の地層で縄文前期の

   土器が確認されていることは海進終了以前に漁労を生業とする暮らしが始まっていたこ

   とを示している。

   瀬戸内海の登場は移動する生活から定住生活への転換がなされ海浜部のみならず山間部                                                            

   にも縄文時代の住居跡が確認されており、定住化が進んだと思われるが広島県域では定

     住による集落の形成迄は具体的に確認されていない。

     河川・海浜での網や釣り針、石鏃の他、落とし穴なども工夫され石皿・磨石・石斧などが

     活用された。よりよい道具の材料として香川県のサヌカイトや隠岐島(島根県)、姫島

     (大分県)の黒曜石などが交易された。道具や道具にほどこす意匠が周囲に伝播し、各

     時代の文化圏が形成され地域間の交流も活発であった。

     広島県域は基本的には畿内・瀬戸内文化に含まれるが前期や後期には九州文化の影響も見

     られ、二つの文化圏の境界、接触する地域でもあった。晩期には瀬戸内を含む西日本が同

     一の土器文化圏となり、新しく伝来する文化を受け入れ浸透させていく基盤が成立した。

3)帝釈峡(国定公園)の概要

    広島県北部にある帝釈峡は比婆郡東城町・神石郡神石町・油木町に広がる石灰岩台地が、

    帝釈川の侵食によってできた約18kmに及ぶ渓谷である。巨大な天然橋の「雄橋」を始

    め鍾乳洞の「白雲洞」・周囲24kmの神竜湖など自然の姿をそのままに残している秘境で

    ある。夏は涼しくカジカが鳴き、秋は燃えるような紅葉で付近一帯が鮮やかな色に染めら

    れ、春は峡谷に桜・ツツジ・フジなどの花が咲き乱れる美しい渓谷で、1963年(昭和

    38年)国定公園に指定されている。

    帝釈台は山口県秋吉台や岡山県阿哲台などと同じ様なカルスト地形で地質学的にも研究素 

    材が豊富で多くの地質学者がこの地を訪れ、また岩陰・洞窟遺跡が発見され考古学的にも

    貴重な地域として知られている。

    帝釈峡は北から大きく「上帝釈」・「神竜湖」・「下帝釈」に分けられ、「上帝釈」から「神竜

    湖」の間の自然歩道に沿って天然橋、鍾乳洞などの地質現象が見られ、「神竜湖」周辺は観

    光船の乗船場として観光の中心になっている。  

    「下帝釈」一帯は自然歩道などの観光施設が未だ十分には整備されていない。従って美し

    い自然と地質現象を観察するにはバスを利用して「上帝釈」まで行き、自然歩道を歩いて

    神竜湖まで下るとよい。歩くことに自信のない人は途中の乗船場から観光船に乗って神竜

    湖まで下ることもできる。

    帝釈台地の石灰岩は古生代石炭紀(約3億年前)から二畳紀(約2億5000万年前)に

    かけて堆積した海成層で紡鐘虫(フズリナ)、サンゴ、腕足具、石灰藻などの化石を豊富に

    産出する。帝釈峡にはこの他地下水の溶食によってできた天然橋(雄橋・雌橋)、鍾乳洞

    (白雲洞)なども存在する。

    「上帝釈」に到達すると帝釈の小さな町並みがあり、町並みの北側には石灰岩の大きな岸

     壁がそそり立っている。その岸壁の下に永明寺というお寺がある。この寺院は奈良時代に

     建てられたと伝えられていて、その中には帝釈天が祭られている。「帝釈」という名称は

     この帝釈天に由来するものといわれている。この付近の石灰岩は塊状白色で永明寺層と命

     名されている。永明寺層は永明寺付近から神竜湖の中心である犬瀬にかけて分布し、その

     厚さは約150mで、その中からは紡鐘虫、サンゴなどの化石を産する。

     帝釈の町並みを後にして帝釈川に沿って自然歩道を下っていくと岸壁の中に「賽の河原」

     と呼ばれている溶食洞がある、その道をさらに南東に進むと左手の峡谷に「白雲洞」とい

     う鍾乳洞がある。これは山口県の秋芳洞等と同じ石灰岩が地下水によってできた溶食洞で

     ある。「白雲洞」の下流約500m下った所に、「雄橋」と呼ばれている巨大な石灰岩の天

     然橋がある。この天然橋は規模において、またその奇形の自然の美しさにおいても帝釈峡

     随一を誇るものである。その成因については、かって帝釈川に沿って規模の大きい鍾乳洞

     ができ、その河床に侵食が進んでさらに洞穴ができ、その後侵食と崩壊が進んで鍾乳洞で

     あった現在の「雄橋」の部分だけが残ったものと考えられる。

     「雄橋」の規模は長さ約90m、高さ約40m、幅約19mで、それは規模において世界

     三大天然橋の一つであると言われている。

     「雄橋」から下流に約400m進むと帝釈川が急流になって滝のようになっている地点に

     出る。その付近を「断魚渓」といい樹木が茂っていて、秋には紅葉も美しく苔むした岩肌

     と急流が調和して、見事な渓谷美をつくり出している。断魚渓を過ぎてさらに帝釈川に沿

     って南に進むとマスの養魚場がある。この付近は石灰岩を主体とする古生代二畳紀(約2

     億5000万年前)の地層が分布している。 養魚場の下流には歩道のすぐわきの路頭に

     断層角礫や断層による鏡肌が現れている。断層の観察できる路頭を過ぎてしばらく進むと

     帝釈峡第二の天然橋である「雌橋」に出る。その成因は先に延べた雄橋と同様であるが、

     規模は「雄橋」ほど大きくない。「雌橋」の付近に神竜湖の周遊する遊覧船の乗船場があ

     る。ここからは遊覧船に乗って神竜湖の観光の中心である犬瀬に行くことが出来る。

     また、付近の景観や自然現象を観察したい場合は、「雌橋」からさらに自然歩道を歩いて

     犬瀬に行くことも出来る。

     神竜湖のダムの高さは河床から約60mあり、ダムの右手には「太郎岩」と呼ばれる巨大

     な岸壁がそびえている。秋の紅葉の季節は石灰岩の巨石と紅葉と神竜湖の水の青さの織り

     なす美しさは格別で、国定公園帝釈峡の自然美を求めて多くの観光客がこの地を訪れる。

     神竜湖の下流和京までの約8kmの峡谷を「下帝釈」といい、その中には遊歩道も未だ作

     られていなくて、自然のままの状態が残されている。

 

 

2,まとめ

    広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報」資料の内、各遺跡の標高・現河床との 比高

     とその文化層 の一覧を作成した。中国電力(株)が作成した「帝釈峡の自然環境調査」      

     の中の図を背景に各遺跡の標高をプロットし、現帝釈川の河床との比高により遺跡の場所                                              

     を推定した。(別図参照) 

 

 

 

引用文献

O  帝釈峡遺跡群                       潮見 

O  広島県の歴史                       山川出版社

O  帝釈峡の自然環境調査               中国電力(株)

O  瀬戸内海の成立と地形・地質

O  中国地方地質学ロマンの旅           友成  

 

帝釈峡遺跡群の標高及び現河床からの比高レベル一覧表へリンク

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