アナトリア高原遺跡探訪の旅

アジアとヨ−ロッパを結ぶ要衝の地にあるトルコ共和国、首都アンカラを含み東・東南部にかけての地域をアナトリア地方と言い、海抜千数百メ−トルの高原が続く。紀元前7000年頃には既に原始的農耕社会が築かれていた。紀元前3000年頃にはアナトリア一帯は青銅器時代に入る。その時期内陸部には、ハッティ-と呼ばれる人々が定着し、ヒッタイトに征服される迄の約1000年間この地を支配していた。ヒッタイト人はインド・ヨ−ロッパ語族に属す北方系の民族で、紀元前2000年紀の初めに黒海の北から移住してきたと言う。エジプトのラムセス二世とカデッシュで戦ったハトゥシリ三世は紀元前1269年世界最初で、かつ守られ通された数少ない平和条約を締結、エジプト・ルクソ−ルのカルナック神殿のレリ−フと同じ内容の楔形文字板がハトゥシャシュから発見された。そして人類史上初めて”人工鉄”を所有し独占したと言う、ヒッタイト帝国時代の発掘現場に”鉄”の痕跡を求め訪ねた。

ヒッタイト帝国の都址;ハトゥシャシュが目前に

首都アンカラから東へ車で約200km、現在名はボアズキョイ村である。写真中央から右側の丘に都址がある。中央の丘の左端は、大城塞と呼ばれ王の宮殿跡がある

ライオン門;高さ4,18m

この他に、
スフィンクス門・王の門が
残っている

城壁内 都址;スフィンクス門から見下ろす

神殿跡・住居址の基礎部が残って
いる。中央左側にボアズキョイ村が
拡がっている

大城塞内の王の宮殿跡入り口付近

右側へ上るように宮殿跡が続いている。当時の環境はアプロ−チ
写真の様に樹木が茂り、緑に囲まれていたと言う。現在スフィンクス門外の前面の丘に植林が行われている

ヤズルカヤ遺跡のレリ−フ

ボアズキョイ村から北東2kmの所にあるヒッタイト帝国時代末期、ハトゥシリ三世によって開かれたヒッタイトの神々を祭る至聖所、外部に大ギャラリ−・小ギャラリ−がある 

 カマン・カレホユック遺跡;北東より望む

アンカラの東南、車で約140km、ほぼ直径280mの円形で高さは20mの台形を呈している遺跡。ホユックとは丘を意味し、またテペとも言われる

第16次発掘現場風景

日本中近東文化センタ−により、
1985年に予備調査が行われ、
翌1986年から発掘開始。
完掘まで後4〜50年以上かかると言われる

現場にて

発掘責任者;アナトリア考古学研究所所長大村幸弘氏より説明を受ける。
今立っている地面は紀元前3000年紀の時代のもの。
頭がクラクラするほど暑い。
レベル=TL1069,60m-11,45m

南から北方を望む

掘った石や土等を上に持ち上げる為、2台の重機が導入されている。この様な遺跡の周りには必ず樹木が茂り、即ち”水”があり、同じ場所に何千年と人が住み付き、ホユックやテペとなる

クシャックル遺跡全景;上神殿より見下ろす

アンカラから東南東、車で460kmの所にある全部がヒッタイト帝国時代の遺跡。TL1650m、約18haのテペ遺跡。1992年からドイツ隊により発掘中。後数年で完了するとの事

城壁址内に入りテペを見る

テペ上右側は神殿跡。
中央一段高く盛り上がっているのは、ロ−マ時代の墳墓、左側盛り上がっているのは発掘土捨て場と言う

発掘風景

アンドレアス・ミラカッペ教授夫妻の指導により各国の大学院生クラスの人達5〜6名が参加。
土を掘るのは、ここも現地の人

城壁跡;物見塔の部分

数十メ-トルおきに物見塔があったらしい。壁は約450m角の規模だったと言う

 神殿跡

この部分には地下があり、倉庫や神殿の重要な部屋があった。写真中央左側は東門(一部復元されている)上部中央には上の神殿があり、神殿の前には丸い池がある。稜線の向こうに降った雨はユ−フラテス川に注ぐと言う

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ヒッタイト帝国時代の人工鉄

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