平成13年度前期「日本考古学研究 T」レポ−ト

弥生時代の歴史像についての一考察

               〜戦闘・戦争を示す遺物・遺構からの検証〜         2001/08/22

                                                        CB−130003  倉本 卿介

 

はじめに

弥生時代は我が国の歴史の中で国家形成段階に至る過程として特に重要な時期と思います。
そこでまず当時の「東アジア世界」の展開や中国の正史に断片的に記録されている文献や、
考古学の成果等を照合しつつ戦いに関連する事項を考察し、次に本論として画期の戦闘・
戦争の実態を考慮し私の考える歴史像を述べたいと思います。大変面白いテ−マであると
同時に、今の考古学の成果や学界の定説を元にしては解けないもどかしさも感じます。

倭国の国家形成は水稲農耕と利器の発展の中で「東アジア世界」の政治的変革、それらの
変革の各時期前後で大きく影響を受けた倭国内の経済的に裏打ちされた政治的社会が、早
くから形成された地域と遅れた地域の差はありますが、その進展に伴い結局は戦争を通じ
て形成されていったと考えます。中国も熾烈な共同体間の戦争を繰り返し経過する事によ
って国家が形成されていますし、その影響を受けてその他の「東アジア世界」もやはり
戦争を通して国家を形成しております。しかし現在の考古学的資料から全ての戦争の確認
はなかなか難しいと思います。

本論に入る前に、弥生時代の戦いに関係する事柄につき幾つか纏めておきたいと思います。

 

1)「東アジア世界」に関連して

中国の社会と国家が最初の大きな変動期に入るのは春秋戦国時代で、この変動期に於い
て氏族制は弛緩し家父長的小農民が発生し、邑制国家は解体されて家父長的君主が出現し
これが小農民を支配します。その結果として諸侯国は互いに他国を侵略しその領域を拡張
する様になりました。戦国時代になると内部の夷荻も姿を消し、夷荻とはすべて七国の外
の存在として意識される様になります。この変動期に際して中国では各種の思想家が輩出
し、変動する国家社会に対応する思想活動を展開、それ迄の華夷思想や封建制論はこの中
で整理され理想化されていきます。この変動の結果、中国周辺の諸民族は初めて中国の
影響を受けてこれに刺激され、それぞれ政治的社会への胎動が開始されました。

戦国七国の一つである燕はその勢力を遼東方面に伸長させ、更に朝鮮半島へも影響を与え
ます。中国に出現した鉄器時代の波が朝鮮へも及び、さらに海を越えた日本でもこの時代
に縄文社会から弥生社会への移行が開始されます。この移行によって我が国では水稲農耕
が開始され、青銅器と共に鉄器も導入されることとなり社会は大きく変化しました。

しかしこの段階においても未だ「東アジア世界」が形成されたとは言い難く、この影響に
よって周辺諸民族は未開の段階から文明の段階へと移行し、その結果各々の政治的社会を

形成するようになります。中国の政治権力とこれらの地域とのあいだに何らかの政治関係
が成立する為には、これらの地域においても一定程度の政治的社会が出現していなければ
不可能であり、これらの地域に対する春秋戦国の変動の影響はその様な政治社会の出現を
可能ならしめる端緒となりました。

中国の君主がその周辺民族の首長と政治的関係を結ぶ事になるのは、春秋戦国の変動の結
果として中国が統一され、そこに新しい君主の称号である「皇帝」が出現した後のことで
あります。前221年、秦は6国を滅ぼして天下を統一し、王号を止めて「皇帝」と名乗
りました。皇帝の出現と共に封建制は廃止され、その支配領域は全て郡県とされ、人民は
全て皇帝の直接的支配下に置かれましたが、未だ「東アジア世界」形成の端緒は秦の時代
には見られませんでした。その端緒が初めて実現するのは次の漢王朝になってからであり
ます。そこでも「皇帝」は依然として君主の正号でありましたがその支配体制は郡県制専
一ではなく、これに封建制が組み合わされたものであり、所謂郡国制と称されるものであ
りました。この事は「東アジア世界」形成の端緒を可能にしました。何故ならば周辺諸民
族の首長に「王」・「候」の爵位を与えて、中国王朝の政治体制の一環に組み入れることが
可能となったのであります。朝鮮に関して言えば、当初は朝鮮王として中国の王号を受け
その藩国となりましたが、その後郡県とされ直接的支配を受ける事となりました。漢王朝
は当時、外民族に対する関心は東方よりむしろ北方・西域方面に向けられ、しかも前漢前
半期においては皇帝支配の論理が整備されておらず、外民族に対する統御姿勢に一貫性を
欠いておりました。皇帝支配の論理的構造が整備されるのは儒教が国教として成立したこ
とによります。前漢王朝を簒奪した王莽は皇帝権を観念的に強化して蛮夷に対処したため、
多くの蛮夷が離反する事となりましたが、後漢王朝が成立するとその礼教主義的政策によ
って外民族との関係が調整されました。光武帝の末年に初めて委奴国の使者に金印が与え
られたことは、これまでの楽浪郡を媒介として間接的に中国王朝の影響を受けていた日本
が、これによって中国王朝と直接的な接触を開始したことを示します。

しかし、未だ東方諸国の自発的な政治的社会の成熟は遅れており「東アジア世界」と言う
政治的世界は完成されていませんでした。がこの間、漢代の意義は前漢時代において徳治
主義を標榜する儒教的君主主義主観が皇帝制度と結合し、それに伴って華夷思想と封建思
想とが理想化された形で政治思想内に定着され、これのよって漢王朝の外民族に対する姿
勢の有り方が理論化され、中国王朝と外民族との関係の仕方に定式が与えられました。

この形式は漢代においても既に「外臣」の関係として実現されていますが、これを含めて
「冊封体制」と呼ばれる「東アジア世界」の政治的構造様式の形成に連なります。さらに
漢王朝と言う先進的統一国家が結果的には郡県制と言う直接的支配の形態をとることによ
り、南方及び東方に進出したことは一面ではその地域の原住民に刺激を与え、その社会の
発展の契機となりそこに政治的社会が成熟していくと共に、他面では異民族支配に対する

反抗を惹起しこれ又、原住民の政治的社会への展開を促進させる事となりました。

2世紀になって倭の諸国が成長し、その後半期になって「倭国大乱」と言う状況を齎し、
その中から邪馬台国女王卑弥呼が登場するのも、帯方郡を経由した中国王朝の影響が倭国
における政治的社会の発展を促進した結果と言えます。それと共に、中国王朝の側にも
「東アジア世界」の中での倭王の存在の必要性があったのでしょう。

 

2)中国正史に関連して

正史ではありませんが、倭人を指しているだろうと思われる初現は周代の「尚書」・
「礼書」にあります。漢代の書「論衡」にも周代の成王の時の記事があります。

正史では「前漢書」地理志・燕地の中に(紀元前2世紀〜世紀1世紀前後、弥生時代中期)

「分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見す、と言う。」と記述されています。

これが「魏志」倭人伝では「旧百国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。」

又、「後漢書」倭伝では「…・凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより(BC108年)
使訳漢に通ずる者、三十許国なり。」、「建武中元二年(57年AD)委奴国奉貢朝賀…・光
武帝以印綬。
」、「安帝永初元年(107年AD)倭国王升等献生口百六十人、願請見。
これを読むと約350年間中国に使訳する国数は三十国と変わっていない事、1世紀半ば
には倭人国の王と認められた王が居たと言う事、中国皇帝に直接会える国王が居た事が分
ります。「魏志」倭人伝の記す時期には九州島だけでも三十ケ国以上の国があったと思われ
本州を入れれば相当の数になると思いますが、百余国が三十ケ国になった場所が九州島で
あれば考古学的にも納得出来ますし、九州島の三十ケ国の内邪馬台国だけが朝献出来、他
の国は郡へ貢献していたとも考えられます。もし、本州からの朝献が有ったとすれば記事
の中にそれらしい記述が出てくると思いますが、それらしい記事が無いと言う事は「魏志」
倭人伝の時期には九州島だけが知見されていただろうと推察します。それと、帯方郡より
女王国(邪馬台国?)まで万二千余里と言う数値と、正始元年(240年AD)に皇帝(斉
王)の使いが倭国に詣り、倭王に拝仮し倭王の上表を受け取ったと言う記述からは邪馬台
国は九州に有ったとしか考えられません。場所は不弥国の隣国かと思われます。いずれに
せよこの史書だけから想定する事は危険な事であり、考古学的資料による照合が不可欠と
思います。唯、現在の九州の鏡と土器による時代編年の定説に余裕があれば、十分説明出
来る事と思います。それと墓の副葬品をみると北部九州では前期後半から階層化が認めら
れ、中期後半には所謂「王墓」と呼ばれる墓が登場しますが、近畿では後期にならないと
現れません。歴代の中国正史は金印を印綬した委奴国の王から始まり、倭国を代表する権
力は常に継続性のあるものとして記述されておりまして、「隋書」倭国伝も同様で、地勢の
中に九州にしか無い阿蘇山の記事があり、それが改まるのは「旧唐書」の「倭国・日本」
伝の記事からで、今迄の「倭国」についで別の国として「日本」に関して初めて記載して
おります。少なくとも654年の倭国貢献の記事は正確であると思われます。次の「新唐
書」以後は「日本」伝のみで、「宋史」日本国伝からは今迄の委奴国に継続する国として位

置付け、地勢の描写もその国の歴史も初めて大和と思わせる記述になっております。

倭国内の権力構造が近畿に有ったとしても、対中国王朝に対してはその頃依然として九州
が対応していたのではなかろうかと思われて仕方ありません。邪馬台国女王・卑弥呼の
共立の意味とその時代の成熟度を、近畿を含め考えていかなくてはと思っています。

 

3)弥生時代の始まりと終わりについて

定説では朝鮮半島南部からの渡来人が北部九州へ水稲農耕と青銅器・鉄器を齎した、
紀元前5〜4世紀から始まり、邪馬台国時代を経て近畿大和を中心とした連合国家が誕生し

前方後円墳と言う全国共通の墓制(祭祀文化)を確立した紀元3世紀末の大和王権の成立
をもって終わりと定義しておりますが、ただ始まりにしろ終わりにしろ時期を特定する事
は未だ諸説があります。

 

4)水稲農耕に関連して

弥生時代の始まりとされるこの水稲農耕も、鉄の渡来も今や年代が溯り福岡県「板付遺
跡」の縄文晩期末、佐賀県「菜畑遺跡」からは更に古い縄文晩期後葉(紀元前5世紀)の
水田跡が発見されています。福岡県糸島郡二丈町「曲り田遺跡」からは板状鉄斧(手斧か?)

と思われる鉄片(中国製鋳造品?鍛造品?)が出土しております。これは紀元前500年
頃と考えられ、北部九州では既に紀元前6世紀末〜前5世紀前半にはある程度発達した水
稲農耕が行なわれれていた事は疑いのないところとなりました。本州(岡山市「江道遺跡」、
茨木市「牟礼遺跡」など)でも縄文晩期末の水田跡が発見されている他、本州最北端弘前
市「砂沢遺跡」で弥生時代前期前半末に溯る水田跡と遠賀川系土器が見つかり、東北北部
の水稲農耕は一気に紀元前2世紀初まで溯りました。でも長くは続かなかった様ですが。
これらの事実から邪馬台国の時代には九州のみならず本州の多くの地域にも、それなりの
国と呼ばれる集団が相当数あったと考えられます。

北部九州の水耕農耕は当初は、低い丘陵をひかえた小規模な微低地や自然堤防上のわずか
な高まりであります微高地での小規模な水田で稲作を始めたと思われます。列島最古の水
田跡である縄文晩期後葉の「菜畑遺跡」の水田も浅く谷奥の湧水を中央の水路に集めて用
排水を繰り返す構造の半湿田でありました。その後の弥生時代の開発も基本的には低湿地
農業と言う限界の中で推し進められましたが、微低地型の水田開発には湖の後背湿田や谷
底平野全体、狭い谷水田へと及んでいく方向と、微高地型と微低地型の組合わせが、沖積
平野に広く及ぶものであります。この時期には未だ小地域単位の血縁的小集団であったと
思われます。この時期には農業を基盤とした社会が定着し、生産力の急速な増大によって
余剰生産物が生み出され、その結果として人口もさらに増大し新たな可耕地への進出が強
く要求されたものと思われます。広大な低湿地の開発はいまだ自然条件からも、社会条件
からも無理があったらしく、台地上への進出が選ばれております。この様な台地上への

進出は中期前半まで引き続き行われておりますが、中期中頃以後となりますと台地上に占
領した集落は急激に廃絶され、跡地は墓地として利用される事が多くなりました。この頃
になりますと拠点集落のリ−ダ−、あるいは世帯共同体の家長の地位に新しい性格が窺わ
れる様になります。朝鮮系の多紐細文鏡・銅剣・銅矛・銅戈の副葬、ゴホウラ・イモガイ
等の南海産貝製釧を着装した被葬者の出現、即ち首長層の確立と土地開発等に伴う首長層
の指導性の強化、中期中頃以後急速に鉄器が普及していくに伴って、今迄開発不能だった
低湿地の潅漑、排水を可能にして行ったものと思われます。甕棺墓や土
墓の副葬品とし
ての銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先の出土は丁度この台地への進出が始まった直後から、
低湿地への開発が行われる頃までの間に集中しております。従ってそれらの土地を巡って
の他集落との争奪戦もかなり激しかったものと想像されます。

 

5)環壕(濠)集落に関連して

ムラの周りにぐるりと壕をめぐらす環壕集落は水稲農耕とセットになって、朝鮮半島南
部から既に縄文時代晩期後半期には北九州に入っていた。その発する所は慶尚南道・蔚山

市「検丹里遺跡」や忠清北道・扶余郡「松菊里遺跡」の人々であり、入って来た所は福岡
県粕谷町「江辻遺跡」や福岡市「重留遺跡」・福岡市「那珂遺跡」であります。

当初は血縁的小集団のムラとして外と内とを区分し身内意識や団結力の維持の為や、外敵
(人・獣等)の侵入を防ぐ目的の為に設けられたものではないかと思います。その内一般
の人々と特定の家族を区別すると言った階層性が発生し、内外二重の環壕(濠)集落に発
展し、さらに農耕の規模が大きくなり人口も増えた時、ムラとムラとの利害の衝突が争い
と言う関係になり、他集団に対する防御的機能を持つようになったと思います。

一足先に社会的に成熟した北九州の刺激によって、中期中頃〜末(紀元前1世紀〜紀元1

世紀前半)になると益々防御的性格を強め、東へと広がっていきました。近畿地方の中期

(1世紀後半)には、水をたたえた環濠を何条も巡らした大規模な環濠集落が次々と形成

されます。奈良盆地や河内平野の「唐古・鍵遺跡」・「池上曽根遺跡」等がそれであります。
濃尾平野の「朝日遺跡」では環壕の二列の底に逆茂木を置き並べ、その外に針山のように
斜めに突き刺した乱杭によって防御を固めている例もあります。東北を除く東日本でも
中期後半になると横浜市「大塚遺跡」の様に環壕集落が目立つようになります。

これら弥生環壕(濠)も3世紀の初めから後葉にかけて解体消滅します。それと期を一に
して土塁や壕・溝、塀などで方形に囲われた首長層の居館が出現します。

これらの事実から邪馬台国の時代には、九州のみならず本州の多くの地域にもそれなりの
国と呼ばれる集団が相当数あったと考えられます。

 

6)高地性集落に関連して

中期前半、低地の多重環壕(濠)集落と共に出現してきます。「高地性集落」とは低地

の水稲農耕集落に対し小高い丘の頂上や丘陵上に立地する集落を言います。そして王権形
成に向けての社会的緊張に反映して作られた「典型的な高地性集落」とは、水田耕作が可
能な平野を控えながら日常の農作業に支障をきたす山頂や急峻な丘陵上に作られた特殊な
ムラを言います。典型的な高地性集落は明らかに防御性を第一としています。深いV字壕
を巡らしたり、自然の要害を取り入れたりしています。また眼下の平野や海上が見渡せる
こと、別の高地性集落が見通せること、狼煙等の通信機能を持つ事等が典型的高地性集落
の重要な要素なのです。低地の環壕(濠)集落が防御性を益々強めていく中期後半になっ
て、瀬戸内海沿岸から大阪湾沿岸の地域を中心に次々と作られ始める典型的高地性集落
こそ弥生時代中期から後期にかけて軍事的緊張があったことを示していると言えます。

その最初のピ−クは紀元前1世紀から1世紀前半の弥生時代中期後半。(資料A−1)

それらは瀬戸内海沿岸を中心とした交通の要衝に、一斉かつ爆発的に出現して短期で消え
る高地性集落です。

次のピ−クは引き続き弥生時代後期に現れます。(資料A−2)中期後半の集落が引き続き
機能するか、同じ様な立地で作られ、すぐ消えるものもあります。又比較的低い丘陵上に
立地しその中には低地の拠点的な巨大環濠集落がそっくり移動したのではないかと思わせ
る様な丘陵上の巨大なムラがあります。例えば北摂平野の「安満遺跡」が衰退し近くの高
槻市「古曾部・芝谷遺跡」が出現する。又「池上・曽根遺跡」が衰退する時期に和泉市「観
音寺山遺跡」が、石川流域の「壷井遺跡」や「喜志遺跡」の衰退に合わせて「寛弘寺遺跡」
が出現すると言ったタイプです。この時期のものは海岸部だけでなく、むしろ河川を溯っ
た平野の奥や盆地の丘陵上にも顕著に現れております。特異な点は先のピ−ク時になかっ
た奈良盆地・山城盆地・南河内平野などで、高地性集落が頻繁に出現し始めるのも

この時期で、さらに関ヶ原や伊賀盆地を越えて伊勢湾沿岸地域まで広がり、後期末(2世

紀末頃)には北陸や東海地方にも認められます。これは最初のピ−クとは違いもっと継続

的・内部的で複雑な社会的緊張があったことが感じられます。これは所謂「倭国の乱」の
時期に当たると思われますが、しかしこの時期に西日本に大規模な戦乱があったと言う考
古学的痕跡は今のところ認められません。最後のピ−クは3世紀前半から後葉にかけてで
あります。(資料A−3)この時期に
向に倭国の連合政権が樹立したと考えられます。

それは中部瀬戸内や近畿の防御性の高い集落は姿を消しておりますが、一方東海・北陸や
九州の中部・中国西部には、新しいヤマトの連合政権にくみしない勢力が未だ居たと思わ
れます。

 

7)武器に関連して

弥生時代の武器には遠隔戦用の武器と近接戦用の武器があります。遠隔戦用の武器とし
ては、弓矢と投弾があります。弓と矢は縄文時代から存在し基本的に狩猟用に作られた道
具でしたが、弥生時代になると一般的に戦闘用の特徴を備えてきます。この変化が最も早

く始まるのは九州北部であります。矢を発射する装置である弓は長くて把握部がゆづかの
中央よりやや下にあることが日本列島の特徴とされ、弥生時代になってもこの点に変わり
はありません。唯、弦をかける
(やはず)の部分にこれ迄の緊縛法から朝鮮半島の影響
を受けた弦輪法に変わる改良された弓が弥生時代早期以降から出現します。矢の先に付け
る矢尻(鏃)には石鏃・銅鏃・鉄鏃・骨鏃・木鏃・貝鏃があります。縄文時代からある打
製石鏃は重さが平均
1,2gだったものが弥生時代の前半では2~3g,中期には5~6gと重く
なります。これは重量化して殺傷力を増す為の変化と思われます。

北部九州では、弥生時代早期〜前期は長さが20cmにも達する戦闘用に作られた朝鮮系の
石を磨いて作られた磨製石鏃と縄文系打製石鏃が併用され、中期前半(紀元前2世紀前半)
には鉄鏃・打製石鏃・磨製石鏃・銅鏃が併用され、後期以降は銅鏃と鉄鏃が主体となります。

瀬戸内では、前期前半に北部九州の影響で長身の磨製石鏃が出現しますが、中期には打製
石鏃の大型化(重さ
3~5g)が計られ、後期以降鉄鏃へ転換します。

近畿では、前期中葉に打製石鏃の大型化が始まり、中期後半には鉄鏃と併用され、後期
以降は鉄鏃+銅鏃となります。

東海では、中期以降打製石鏃は大型化し磨製石鏃も多用され、後期には銅鏃が鉄鏃より多
く用いられております。

北九州では、須玖坂本遺跡などで連鋳式鋳型で銅鏃を生産し鉄鏃を補完しておりますが、
鏃鋳型出土例は後期以降のもので、中期に溯る例はありません。即ち石鏃から直接鉄鏃に
転換する特徴があります。

瀬戸内では、鋳型は銅剣・銅釧の3例しかなく銅鏃の生産は明らかでなく、又九州、近畿

何れから導入されたのかも不明です。

近畿では、弥生時代後期以降打製石鏃を銅鏃に換え有茎銅鏃を連鋳式鋳型で大量生産し、

鉄鏃の補完をしております。長さ3cm、幅1,5cm以下の小型銅鏃は、九州では中期前半

以降に、近畿・東海地方では、後期以降に生産され連鋳式鋳型による大量生産品で実用戦
闘用の鏃であり、地方性はなく斉一的なものであります。一方大型の銅鏃があり儀杖・儀
礼用に使われ、石型や粘土型で製作されており地方性があります。これは古墳時代の有稜
形銅鏃に繋がっていくものと思われます。

鉄鏃は、北部九州では前期末に小型鏃が出現し磨製石鏃を鉄鏃に換え、中期中葉には長さ
cm以上の大型の三角形両脚式となり凹基式は後期前半に大型化します。有茎柳葉鏃は後
期中葉に現れ終末期には超大型の柳葉鏃・有孔柳葉鏃・圭頭鏃など儀杖用鏃が現れます。

近畿では、中期中葉に無茎三角鏃・有茎三角鏃が現れ、中期末には有茎大型三角鏃になり
ます。柳葉鏃も中期後半に出現し後期には大型化し終末期には儀杖用大型柳葉鏃・逆刺鏃
が現れます。弥生時代後期には九州は鉄鏃+銅鏃、近畿は銅鏃が主体でした。
  
          
弥生時代の鉄鏃は約900点程有りますが、このうち中期のものは30遺跡・60点でそれほ

ど多くはありません。

骨鏃は有茎三角式が多く、広島・西山貝塚、大阪・鬼虎川、愛知・欠山、長崎・原の辻、

鳥取・青谷上寺地で大量にと各遺跡で出土しています。

投弾の球は投弾型の土製品・石製品、石球・土球(球型、卵型)があり、新石器時代以降

狩猟用から戦闘武器に変わりました。投弾には、投弾帯(投石縄)・投弾杖・弾弓などの投
弾器を用いるものと、素手で放る飛礫(つぶて)があります。つぶては弥生時代の主とし
て集落や陣地・防塞における防御用の武器でした。日本の投弾は北部九州に出土例が多く、
つぶては縄文時代から、紡錘形土製投弾は弥生時代から用いられています。

次に接近用・格闘用武器としては、石製・青銅製・鉄製の剣、刀、矛(槍)、ナイフ、
棍棒頭(環状石斧・多頭石斧)があります。

有柄磨製石剣(朝鮮系磨製石剣)は、青銅製の有柄細型銅剣を模倣したもので前期〜中期
北部九州を中心に実戦用に用いられました。(朝鮮半島と九州北部の有柄式磨製石剣の祖
形は韓国の全栄来氏によれば、有柄細型銅剣の模倣ではなく中国式銅剣であると主張され
ています。)

鉄剣形磨製石剣は、有茎のものは前期末〜中期前半北部九州に現れ、長崎・里田原では磨
製石剣+木柄+石製把頭飾が出土しています。細型銅剣の模倣品と思われます。幅広の有
茎又は有柄で長身のものは、前期末〜中期後半に九州遠賀川流域に現れます。朝鮮系鉄剣
の模倣品と思われます。幅広短茎に抉りのある鉄剣形磨製石剣は、北部九州に前期末〜中
期に現れます。朝鮮系磨製石剣の模造品と思われます。近畿(滋賀県・下の郷の中期)の
鉄剣形磨製石剣は、実戦用と思われます。木葉形磨製石剣は幅広で基部の片側に抉りがあ
るものが前期末〜中期に福岡県中心に現れます。石矛、石槍との見方も有ります。

近畿型磨製石剣は細型銅剣・中細型銅剣の模造品で近畿中心に瀬戸内、北陸に出土して
おります。関に一対の小孔が有り有樋式もあります。槍先とも思われます。

打製石剣・石槍は近畿を中心に中部瀬戸内沿岸〜東海、北陸地方に分布し前期末〜中期に

盛行。近畿〜瀬戸内の打製石鏃の盛行と一致し近畿地方の主要な武器です。

 

鉄剣は弥生時代のものとして、現在139点を数えますがその約3/4は九州出土で、この内
中期のものは27点で最も古い福岡県須玖岡本3号土壙墓例は中期前半(前期に溯る可能性
もあります)とされ、ついで佐賀県志波屋六本松乙例が中期中頃とされています。中期の
鉄剣は27例中25例が福岡・佐賀・長崎など九州北部に集中しております。古いものは全
長20cm未満で茎部も短く朝鮮製とみられますが、中期後半以降鉄剣は剣身の長さを増し
銅剣類と同じ様に30~40cmのものが多くなり朝鮮製もしくは日本製の可能性も有ります。

石戈は細型銅戈の模倣です。無樋式磨製石戈(九州型)は前期末〜忠期末、北部九州中心

に出土。実戦にも使用しています。有茎・無茎2種あり実戦用です。有樋式磨製石戈(畿
内式)は中期〜後期、近畿を中心に出土。刃部が短く祭器又は象徴的儀器。有茎で銅戈の

模倣とも考えられます。木柄付鹿角製戈は長崎県・原の辻遺跡では、鶴嘴状の戈で茎部に

楕円形の孔に木柄を通す例が中期にあり実戦用と思われます。打製石戈は、大阪・鬼虎川
で石斧直柄状の木柄(長さ80CM)に打製石剣を直角(70度)に装着した例が有ります。

細型銅剣は朝鮮製と倣製品があり、長さ22〜35CM、前期末〜中期前半、北部九州・山口県
で副葬されています。青銅製・木製の柄、把が付くもの青銅製・石製把頭飾の付くものも
有ります。朝鮮製輸入細型銅剣は長短2種が板付田畑の甕棺に副葬されています。その他

山口県・梶栗浜、福岡県・板付田畑、福岡県・吉武高木、佐賀県・宇木汲田から出土して
います。輸入細型銅利器には多紐細文鏡が伴出する場合もあります。中期前半(中期初頭
〜中頃)に細型銅剣の国産が始まりました。石製鋳型が2種、長型が福岡県・志賀島、短
形が福岡県・大谷から出土しています。中細型から東に拡大し、中広型・平形銅剣(瀬戸内
沿岸部)は祭器・儀器として使用されています。細型銅剣の切っ先出土例は石剣に次いで多
く、細型銅剣、中細型銅剣の一部は実戦にも使用されていますが、殆どの中細型・中広型・
平形銅剣は祭器でありました。

細型銅戈は朝鮮製+倣製品、前期末〜中期に北部九州を中心に実戦にも使用されています。
切っ先出土例は2例あります。刃部に直角に柄を付け相手を引っかけて倒す武器ですが、
日本では集団指導者の持ち物だったと思われます。朝鮮製輸入細型銅戈が福岡県・鹿部、
吉武高木から、国産細型銅戈は佐賀県・安永田、宇木汲田、福岡県・有田から出土してい
ます。前期末に国産化が始まったものと思われます。中細型以降は銅戈は祭器・儀器で樋
に複合鋸歯文の大阪湾型銅戈も儀器であります。

鉄戈は九州北部だけに出土する大型の鉄製武器で現在20例を数えます。最古例は佐賀県・
中原7号甕棺出土の中期中葉以前、次いで福岡県・須玖岡本、志摩町御床松原、宗像市富

士原例など30cm前後の小形で細形銅剣に近い形をとったものを中期中葉と推定しており他
の鉄戈は40cm前後の中形で何れも中期後半に属し、後期前半まで続くものも有ります。

細型銅矛は朝鮮製+倣製品、前期末〜中期に北部九州を中心に副葬品として出土、実戦で
も使用されたが切っ先出土例は1例あるのみです。国産細型銅矛の鋳型は佐賀県・惣座(中
期以前)から出土しております、細型銅矛の使用は前期末〜中期後半で北部九州が中心で
す。そして中期後半以降中細型銅矛に換わります。

鉄矛は、現在弥生時代では九州北部だけに16例知られています。福岡県・元松原遺跡出土
例は中期中葉とみられ、中期後半〜後期に漸増しています。鉄矛は鋒部(きっさき)の長
短によって二型式に分けられ、全長40cm前後の長鋒式、全長20cm前後の短鋒式が有ります
が、両者共朝鮮半島に類例があります。

素環頭大刀および素環頭刀子は柄頭に環を作り付けた刀であり、中国の前漢〜後漢、三国
時代に盛行しました。刃部の長さによって太刀・刀と刀子の区別をしていますが、その基
準は定まったものではありません。細身で全長20cm台までのものを「刀子」、それ以上の
大きさのものを一応「大刀」としておきます。弥生時代の素環頭大刀および素環頭刀子類

は総数51例あり、その内42例が九州に集中しております。時期の上では、中期7例、後

18例、弥生終末〜古墳初頭22例、不明4となり、後期後半から急増しております。

「魏志」倭人伝の女王卑弥呼に下賜された「五尺刀二口」も素環頭大刀の類と思われます。

弥生時代の素環頭大刀および素環頭刀子類の近畿圏の出土例は大阪の1例のみです。

鉄刀は重要な武器であり、現在46例が知られており、その内27例が九州から出土してお
りますが終末〜古墳初頭には各地に広がります。弥生時代中期には福岡県の4例だけです。

鉄刀出土例は弥生時代を通じ近畿圏は京都の1例だけです。

防御用武具としては、兜・甲・盾がありますが弥生時代には兜・冑の実例はありませんが、
奈良県・清水風遺跡出土の土器絵画に羽飾りをつけた兜をかぶっている様に見える(戈と

盾を持つ)絵があります。甲(鎧)の発見例は、多くは剣道の胴防具状の木製の胸・背中・
脇を覆う短甲で、草摺り、
甲、籠手などはなく、一木よりくり出した胸当て(前開きの
為2枚に分割)と背当ての三部分からなり、其々綴じ紐で組み合わせています。しかし、
木片の小札を綴じ合わせた札甲も存在しています。

盾は、中国では盾、千、牌戸言い長方形の手牌、円形の団牌などの個人防御用と歩兵旁牌
など大型の集団防御用があります。多くは木製で防御力を高める為に革を張ったり、釘を
打ったりしています。表面には敵を威嚇したり志気を高める為に奇怪な鬼神、神獣を描い
たり、呪文を書いたりしています。16の出土例があり、近畿地方13、静岡県・岡山県

山口県各1、九州には壱岐島で1例あります。銅鐸、土器の絵画には持ち盾を持つ武人
が多いが、出土例は殆ど置き盾であります。
のある巴型銅器は盾の表面に縫い付けら
れた呪具で弥生人の考案かと思われます。

 

8)鉄一般に関連して

弥生時代後半期の「倭国の乱」の原因に関する通説(仮説)は、朝鮮半島南部の鉄資源
や中国製の威信財の確保をめぐる九州北部勢力と近畿・吉備勢力との間で行われた戦いで
あり、乱の結果近畿・吉備勢力が九州北部勢力を屈服させ、列島的規模での鉄をはじめと
した先進文物の流通システムの再編成を成し遂げた、と言うものであります。果たしてそ
うでありましょうか?この時代の鉄器の出土量を比べると、瀬戸内以東でも中期後半から
工具・武器の出土が増加すると言っても、北部九州とは雲泥の差があります。北部九州の
鉄器量の大差は実に、近畿に王権が成立する古墳時代初頭以降にまで持ち越されています。
近畿の後期における石器の一気の減少・退化と後半には無くなると言う現象も(これを鉄
器の普及の結果として結び付ける考え方もありますが)、鉄器の普及とは無関係で、むしろ
後期に激増する砥石と出土する石器の性状・形状から推察出来る、石材供給の不足が原因
と考えられます。また、本当に抗争が激化した社会であればそこで使用される鉄製武器に
も、当然機能の向上が求められると思いますが、鉄鏃を例に挙げるならば、機能・形態・
大きさの豊富な九州から西部瀬戸内地方に比べ、それ以東の地域では機能性を支える技術

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が脆弱で鑿切りの鏃が終末期まで主流を占めております。また短剣にしても各地で発見さ
れる様になったとは言え、国産品と考えられるものの中には身の長さ
10cmにも満たない
例や、身の厚みが鉄鏃にも劣るような薄い例も見られます。特に畿内社会が鉄の流通権を
掌握し、その差配の権限を北部九州から奪取したと言う仮説は、近畿の鉄の有り方や北部
九州との闘争や戦争を示す遺物・遺跡の痕跡の無さによっても、実際の考古資料に基づく
限り否定的に成らざるを得ません。

 

9)戦闘・戦争の被害者〜考古資料

講義におけるプリントから遺物・遺跡の資料を別紙に記します。(資料  B)

しかし、この内の資料の殆どは九州(特に北部九州)の出土例であります。

 

本論

鳥取県・青谷町にある弥生時代中期〜後期の青谷上寺地遺跡から後期後半(2世紀後葉)
の大量の(92体分と言われる)人骨が溝の中から出土しました。この中には鉄製の武器
や骨製の鏃か骨製のやすによると考えられる頭部に殺傷痕を持つ人骨、青銅製の鏃が骨盤
に突き刺さったうえ、かま状の武器での傷跡を持つ人骨等約10体分があります。その他

小児・女性の人骨もあり、集落が襲われた可能性がありますが、この集落はこの時全滅し
た訳ではなくその後も居住していた様です。ここで戦った人達は共に渡来人で、朝鮮半島
系と思われます。この人達は北部九州や山口県・土井ケ浜の人達とはル−ツが違っている
様で、この時期の渡来人のル−トは幾つかあった様です。この溝は環濠かどうかはまだ
確認されていませんが、反対方向にも溝らしきものがあり環濠の可能性は高い様です

遺跡内には鉄片が250点位出土しており、墓も離れた場所に成人、小児と2ケ所確認さ

れておりますが、今は道路部分の調査をやっており、全体としては幾らも進んでいないの
で全体像は分りません。が、文献上の「倭国大乱」と思われる時期の数少ない遺跡と考え
られます。人骨の殺傷痕からの戦いの様子は「遠くからの弓矢で傷つけられた後、接近戦
となりかま状の武器(戈か?)で止めをさされた」と思われ、まさに弥生時代の戦い方の
典型を示していると思われます。

 

さて、考古学的な戦闘・戦争の遺物・遺構から、画期となる次の4つの時期について考察
したいと思います。

 

A)北部九州の水稲農耕の発展時期(前期前葉〜中期中頃)

B)AD57年、AD107年の中国王朝への北部九州の王の朝貢時期(中期末〜後期前葉)

C)「倭国の乱」と女王共立と言う必然性が生じた時期(後期前半〜後期末)

D)近畿に連合国家的政権が生じると言う現象が起こる時期(後期終末〜古墳時代前葉)

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A)北部九州の水稲農耕の発展時期

 その地理的条件により朝鮮半島等を経由していち早く導入された農耕・利器も、その
地勢的制約は、発展過程で早くも戦争を生む苛酷な条件となってきました。

慢性的な食糧不足などの人口圧による精神的な不安や、水争い、土地争い、不慮の災害や
凶作による食糧の掠奪、そしてさらに渡来系の人々からの戦争に関する技術やイデオロギ
−の情報入手、環壕(濠)集落が必要とされる社会不安、これらは戦争を生む条件となっ
ていきますが、反面それらを通して首長権の誕生、さらに階級制の発生、そしてムラ・
クニ・国と言った統合による大共同体群にまで早い時期に発展していきました。

その考古学的立証は、甕棺墓制のお陰で多くの武器や武器の切っ先と共に、武器による
死亡と考えられる人骨の出土例から成されます。(資料
B)

即ち、この時期まずムラ対ムラ、クニ対クニと言った割合狭い範囲での戦いが想定されま
す。戦い方は弓矢で射掛けて、短剣でとどめを刺す方法が主流であったと思われます。

各時期の武器は7)…・・によります。

 

B)中国王朝への北部九州の王の朝貢時期

先進的な北部九州の政治的・経済的・軍事的圧力を感じた、西部瀬戸内・近畿のクニの
各地水稲農耕社会は、低地での環壕(濠)集落を形成し益々防御性を高めさせていってお
ります。そして北部九州の王が中国王朝の冊封を受ける時期には、瀬戸内一帯に第一次高
地性集落が出現しております。(資料A−1)が、
6)でみた様に、この時期には北部九州
の東進意志はなく、戦争の痕跡は当然なく高地性集落もすぐ消滅しております。

 

C)「倭国の乱」と女王共立と言う必然性が生じた時期

本論の最初に述べた日本海側の青谷・上寺地遺跡が「倭国の乱」時の痕跡であれば、「倭
国の乱」は本州を含めた動乱の時期と言う事になると思いますが、私はこの時期は各々の
地域において北部九州に続く政治的・社会的条件が醸成され、ムラ・クニの段階での争い
が基本的にあったのではないかと考えております。楽浪郡との関係を考えますと、九州島
においては中国王朝自身の混乱により安定していた権力関係が崩れ、国・国の軋轢が早く
も顕著になりますが、朝鮮半島の情勢や倭国内の瀬戸内・近畿の充実度等を勘案すると戦
っておられる状態ではなく政治的決着として一人の代表(女王)を選任(共立)したと考
えます。この代表は偶々伊都国のシャ−マン的な女王でありましたが、当時の伊都国は未
だ朝鮮半島との交易権を持っておりリ−ダ−的な立場にありました。九州島全体の安定の
為(南部にある狗奴国に対抗する意味も含め)、居するところを中央部に移し邪馬台国と称
したと思います。伊都国を一大率とし信頼し得る彼女の補佐役としました。第二次高地性
集落の出現は、逆に九州島として女王を共立させる必然性を生じさせたと考えております。
因みに私は、女王卑弥呼の墓は彼女の故郷である伊都国の平原遺跡であり、後の副葬

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形式の原型になったと思っております。この時も九州島の政治的決着により戦争状態は避
けられた結果、その痕跡がないものと考えます。

 

D)近畿に連合国家的政権が生じると言う現象が起こる時期

この時期、西日本のどの地域にも戦争があった事を示す遺物・遺構は殆どありません。

(資料A−3)の第3次高地性集落の分布を見る限り近畿・東海が抜きんでて増加してお
り、寺沢氏が説明する様な中部瀬戸内・近畿の集落が姿を消したと言う事実は認められま
せん。しかし、吉備にせよ、出雲にせよ、但馬にせよ、近畿にせよ、讃岐にせよこの時期
やっとクニ・国の状態に成熟し、さらにお互いの交流があったことを窺い知ることが出来
ます。その後、近畿・特に
向の地に連合国家的政権が誕生したことは明白でありますか
ら、この時期に各地の代表者達による画期的な現象が起こったのではないかと考えられま
す。
向の文化は、それ迄の近畿の文化とは異なった様相を呈していますので、一方的に
近畿の強権の元で確立されたものではないと思われます。この時期、中国王朝(晋王朝)
と冊封関係にあるのは、あくまで卑弥呼の跡を継いだ壱与であります。従って私は次のよ
うに考えます。即ち、当時の各地の代表者達(特に北部九州・吉備・出雲・近畿)が、か
っての北部九州的国家が西日本一帯に存在しさらにその東にも拡がると言う認識を持った
時、彼等の中で倭国の範囲が拡大したものと考えられます。そういう共通認識に立った時、
倭国の中心を近畿・大和へ、中国王朝に対しては壱与が代表し各地の文化(当然人も含む)
の特徴を組み合わせた新しい文化を創造し、それを全国に展開すると言った平和的な解決
をしたのではないか?本来ならこの種の新しい国家の誕生には激しい戦争の痕跡が有ると
思いますが、それが認められません。またこの時が、以後の政権が時々したように外部と
の関係を絶ち、国内を纏めると言った日本的な初見ではないかと考えます。三角縁神獣鏡
とか色々考えなくてはならない問題もあります(これもその時の新しい文化の創造だと思
っています)し、その他の解釈も出来るとは思いますが、一応辻褄が合う解釈を致しまし
た。
                                                                       以上

出典・ 参考文献                                                                   

    講義プリント及びノ−ト               川越 哲志                        2001      

◎ 王権誕生(日本の歴史 02)            寺沢                           2000

◎ 古墳時代を見直す                     北条芳隆・溝口孝司・村上恭通     2000

◎ 人類にとって戦いとは 1,2             国立歴史民族博物館               1999

◎ 倭人と鉄の考古学                     村上 恭通                        1998

◎ 縄文から弥生への新歴史像             広瀬 和雄                        1997

◎ 鉄の古代史  1   弥生時代             奥野 正男                        1991

◎ 中国正史 日本伝      1,2             石原 道博                        1985

◎ 世界の歴史  東アジア世界の成立       西嶋 定生                        1970

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