世界四大文明発祥の地は、チグリス・ユ−フラテス河流域のメソポタミア文明、ナイル河
流域のエジプト文明、インダス河流域に栄えたインダス文明、それに黄河流域の中国文明
とされ、いずれもコムギやオオムギに支えられた文明でありましたが(黄河流域文明の初
期はアワなどの雑穀であったが、殷や周の頃になるとコムギとなる)、一方長江流域にも
同時期“米”に支えられた文明も有りました。

長江中流域の江西省・仙人洞遺跡、湖南省南部・玉譫岩遺跡等の石灰岩洞穴に住む人達は、
一万年以上も前から野生イネあるいはイネ栽培も行っていたと考えられます。

七千年前の浙江省余姚・河姆渡遺跡から膨大な量の稲籾などが発掘されました。
わが国では今から約2400年前頃の“水稲農耕”の開始をもって弥生時代が始まったと
されていますが、イネそのものは縄文時代には既にその痕跡を残しています。

その稲作発祥の遺跡を訪ねて中国・浙江省への旅をしました。

写真 コメント

1、河姆渡遺址博物館図録表紙
(下部は出土遺物)

2、河姆渡遺址位置図
(杭州湾周縁に各遺跡が分布している)
3、杭甬運河に接して遺跡がある
4、1973年この運河改修工事中、
渡し場付近で発見される。

現在も遺跡のそばにある渡し場

5、浙江省の省都・杭州市から東へ約100km、高速道路 越しに博物館が
見える

6、浙江省、余姚・河姆渡遺址−石碑河姆渡遺址は紀元前5000~3300年頃の新石器時代の集落遺跡で、面積約40,000u、文化堆積層4m、4つの文化層があり、第四文化層は約7000年前のものです 黄河上中流域の仰韶文化と同時期にあたります

7、河姆渡遺址博物館
1992年江 澤民氏揮毫による)
19935月 落成

8、発掘断面模型

    第一層 4700〜5200年前

    第二層 5500〜5800年前

    第三層 5900〜6400年前

    第四層 6500〜7000年前

第四層に厚さ30〜50p,最も厚い所で1mに達する 稲籾を含む遺物の量は120トンに達したと言う(おそらく倉庫建物の跡であったと思われる)

9、出土した稲粒(セン稲が多く、
 粳稲もある)

10、“双鳥朝ヨウ”象牙彫刻(浙江省博物館にて)二羽の鳥と昇る太陽のデザイン(第三層から出土)

11、“双鳥朝ヨウ”を用いた河姆渡遺址のシンボル

12、復元された建物柱の出土状況(その向こうに復元建物)
写真撮影しているのは西谷 正先生

13、復元された高床式長屋建物

14、出土土器・イノシシが描かれた角鉢(浙江省博物館にて) 他に稲穂が描かれた深鉢もある

15、出土土器・陶炊具(かまど・釜・甑)小型なので1セットで船の上でも使用したものか?

16、河姆渡文化期と併行する馬家浜文化早期の出土水稲炭化米粒

17、羅家角遺跡へ〜杭州市から
上海に向かって
北東約30qのところの羅家角村

18、羅家角遺跡を示す石碑にて

19、付近の風景〜小高いところは一面のクワ畑ここ桐郷県一帯は今も中国有数の絹の産地である

20、低いところは水田である
写真撮影しているのは佐藤洋一郎先生

21、このあたりの農家の一階は全て作業場その庭先では手前にタバコの葉を乾燥させており奥の丸くて浅いカゴはカイコの小さい時使うもの

22、桐郷市・浙江省文明博物館

23、入り口を入った所にある、世界最古の建築部材 羅家角遺跡出土

24、その説明板〜7040年以前とのこと長江下流域の新石器時代は・・・河姆渡文化(紀元前5200〜3300年)
馬家浜文化(紀元前5000〜3800年)
ッ沢文化 (紀元前3800〜3300年)
良渚文化 (紀元前3300〜2200年)
と続いている

25、良渚へ〜杭州市の西北20qほどのところには、良渚文化の名前の元となった良渚遺跡群がある

26、良渚文化博物館〜良渚遺跡群は
莫角山遺跡を中心に
東西約6q,南北約
6
kmの33.8km2の広さの中にある

27、浙江省文明博物館にある良渚文化重要遺址分布図

28、反山遺址説明板〜この奥に
遺址がある

29、良渚遺址群〜反山墓地の石碑反山遺址は貴族墓地で多数の玉器が出土で有名

30、左側に残されている土の上面が発見前の地表面 1.6m下(現在のレベル)に後漢代のセン墓があり、その下7mに良渚文化遺址が有った 木槨・木棺11基が発掘されたがもっと有ると言う

31、良渚貴族墓葬の展示
(浙江省博物館にて)

32、玉璧

33、玉j

34、玉j

35、浙江省博物館

トップへ戻る

 “稲の来た道”中国浙江省の旅