比較考古学演習                        古病理学                                2002,07,04

CB 140003    倉本 卿介

 

古病理学とは

古病理学とは、現在の病理学の知識でもって過去の人間の疾病を病理学的に解明すると共に、
それらを通して個体あるいは人間集団の営みをも明らかにしようとする学問です。

ここで病理学とは、病気の原因を明らかにし病変の成り立ちを究め その結果生じた形態学的変化や
機能的障害を解明する科学であります。

過去の人々の病気を明らかにするには基本的に二つの方法があります。一つは過去に記録された病気
に関する古文書や絵画等を調べていく、いわゆる医学史的なアプロ−チであり、もう一つが古病理学的
な方法です。これは過去の人々の遺した骨やミイラ等を直接研究対象にしたものです。従って確実に
病変を解明する事が出来、その個人の病気の経過や結果を知る事が出来る唯一の方法です。

しかし、医学史的アプロ−チには大きな弱点がある如く(例えば 記録された病名や症状が今日の医学的
知識に対応しない場合、文字の無い世界や絵画に描かれなかった病気に対しては研究することも不可能
だと言う事などですが)、同様に古病理学にも欠点や制約、限界があります。

それは骨に関して言えば、骨そのものに病巣を残さない赤痢や肺炎、心臓病などの病気であるとか、
骨を侵す病気であってもその病変が骨にまで進展していなかったとか、あるいはその骨の保存状態
によっては病者の性別や年齢が判定出来ない場合もあります。しかしそうは言っても直接古人骨等を
対象とするので、
丹念に見ていくとその個体の生前の健康状態や病気の有無をかなり明らかにする
事が可能です。

 

2,疾病の例 

  骨からの例

   最も古い古病理学的記述は1774年、ヨハン・フリ-ドリッヒ・エスパ-によって報告されたフランスの更新世(洪

   積世)の洞窟から出土したクマの大腿骨の化石(それは変形し治癒した骨折であったが、当時

   骨肉腫として記載されていた)の病変です。

 

a, ル−シ−

  写真 は、1974年アフリカ大地溝帯・アワシュ川峡谷のアファ-ル窪地、ハダ-ルで人類起源研究所のジョハンソン

 によって発見されたル−シ−と呼ばれる人骨です。(ハダ-ルは図−1,2参照)その名の由来は発

 見当時お祭り騒ぎのキャンプのテント内に流れていたビ-トルズの曲“Lucy in The sky with diamonds“の

 Lucyから名付けられました。親しみやすいニックネ-ムもあって最も有名な人骨化石と言えます。

 後期ラマピテクスから分岐したアファ-ル猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)と呼ばれる、約320万年前の若い

 女性の化石で1個体分の内40%の骨格部位が出土しました。二足歩行を完成していたかどうかは

 今なお議論がたたかわされていますが、二足歩行を骨の形態と生態力学を組み合わせて研究して

 いるラブジョイの見解は、二足歩行の完成度がかなり高かったと見なしています。

 ル−シ−の病気に関しては、明らかな脊椎の病変が認められます。クックやバイクストラと言うアメリカの

 著名な古病理学者らによる病変の詳細な比較検討と鑑別診断の結果、ショイエルマン氏病と診断

 されました。 これは思春期に発生する後症(背中の丸みが強くなること)であります。

  b, ネアンデルタ−ル人   

   写真 1856年、ドイツのデユッセルドルフ市郊外のフェルトホ-ファ-洞窟から出土した最初のネアンデルタ-ル人の

   人骨です。1858年、ボン大学のH・シャ-フハウゼンによって報告されたものですが、興味深いのは人類

   化石についての最初の報告と言うだけでなく、その後に繰り広げられたこの化石人骨の持つ原始

   的形態や人類進化の意味と、当時ヨ-ロッパに流行していた病気(クル病)による骨格の異常形態と

   の混同、そしてそれらを研究し、主張し、反論しあった当時の世界的医学者達の動きなどです。

   この骨は世界的病理学者であったドイツのR・ウイルヒョウの反対で、約30年間ボン市のライン地方博物館

   の倉庫の片隅で埃まみれになっていました。           

   この人骨化石の病変としては、@頭蓋に骨萎縮を主体とする老化現象が強く現れている。A顔面

   の右眼窩上線と頭蓋の右頭頂結節に治癒した外傷性変化、即ちケガの跡が認められる。B右肘の

   関節には慢性の炎症所見があり、肉食者によく見られる痛風の可能性がある。次の所見が論争の

   的になった訳でありますが、C大腿骨が前方に向かって強く彎曲し、また頭蓋骨頂部に膨張があ       

   る。この所見がドイツのR・ウイルヒョウをして当時流行していた英国病、即ちクル病に罹っている、従っ

   てその原始性を論議する事自体誤った論議である、としたのである。が後ダ-ウィンの「種の起源」 が

   発表され、その後この大腿骨の彎曲は数多くの他のネアンデルタ-ル人骨、例えばラ・シャペル・オゥ・サン人骨

   やラ・フェラシ-U人骨等にも認められ、G・シュワルペ等の詳細な研究によりおよそ50年ぶりに再び輝か

   しい評価を得、今は同じ博物館の大金庫の中に厳重に保管されています。この彎曲は激しい狩猟

   採取活動に基づく大腿屈筋群の強大な発達によるものと考えられ、我が国の縄文時代人の大腿骨

   にも現れています。他の例としては、ある集団のネアンデルタ-ル人には上半身の外傷が多く(特に30

   才代の骨では100%近く)、下半身には少ないと言った状態が認められ、何故なのかと研究者は悩

   んでいたところ、ロディオに於ける騎乗者の外傷と酷似していることに気付き、当時の石器の見直し

   を行いました。そして狩りに使っただろう槍が手槍に変化していることから、より獲物に接近す

   る集団的狩猟法をとることにより、ケガが多くなったのだろう。そして集団作業だからある種の言

   語を話していただろう、又そのケガが回復している例が多く見受けられることからも知能が高かっ

   たと同時にやさしさもあった事が推察出来ました。このやさしさは、例の6万年前のシャニダ-ル人の

   埋葬に花を添えていた事からも証明されると思います。

 

c, 縄文時代人

 日本での縄文人骨の病変に初めて注目したのは足立文太郎で、1895年千葉県古作貝塚出土の癒着

 した右の脛骨と骨に着目し、病理学者の示唆によりこれを梅毒によるものと診断し発表しまし

 た。一般的に縄文人には外傷性の病変が多く、石や槍による受傷・骨折・奇形性関節炎・変形

 性脊椎症・顕著な骨膜炎・腫瘍等について多数報告されています。

 写真 3−1,3−2は外耳道骨腫の例ですが、従来出土した地域の特性から潜水による食糧採集

 活動と関係付けられました。最近サ-フィングやダイビング、ヨット、水泳など水に関係したスポ-ツに慣れ親

 しんでいる人、又潜水による漁労活動、採集活動に携る海女や海士の人達の間にも、ただならぬ

 高頻度でこの外耳道骨腫が報告されています。これらの事からも縄文人に見られるこの症状を、

 食糧採集活動によるものと考える訳です。

 外耳道骨腫と言うのは、外耳道(耳の穴)の後壁又は前壁に、時として見られる表面の滑らかな

 瘤状の良性腫瘍で、弱い隆起状のものからウネ状の高まり、真珠玉の形をした小さな瘤、結節状の

 突起、さらには不定形の大きな塊にいたるまで様々な形状をしています。

 原因は「冷水刺激」によるものと考えられています。潜水に従事したり、波しぶきを被るなど長

 時間にわたって常習的に水に親しむ生活を続けていると、いつも外耳道に水が入った状態になる。

 その為水から上がっているとそこが気化熱によって冷却され、外耳道のまわりの薄い皮膚を通し

 て鼓室板(外耳道の内壁をなしている)の骨膜が絶えず刺激を受け、その結果比較的遅い時期に

 化骨を完了する鼓室板は、過剰に反応して骨増殖するよう促され外耳道骨腫が誘導されると考え

 られています。これは弥生時代人、古墳時代人にも現れる症状です。唯、内陸部の人骨にも認め

 られる場合があり、遺伝的要因もあるのではないか、という説もあります。

 

 d, 弥生時代人

   最も頻繁に見られる所見の一つが骨折をはじめとする外傷の痕跡です。頭蓋骨骨折・椎骨骨折・

   肋骨骨折・上肢骨折・下肢骨折・利器による損傷(鉄鏃嵌入例、磨製石剣嵌入例、朝鮮系柳葉式

   磨製石鏃嵌入例、石鏃嵌入例、鋭利な刃物による利器創など)が多数認められます。原因は鈍器

   殴打による陥没骨折、加齢に伴った骨粗鬆症、何らかの外力による骨折。又武器による損傷例が

   多い事は、戦いが頻繁にあったことを物語っています。

   写真 4−1,表 1は、レントゲン写真に現われたハリス線の写真、及びハリス線出現数の比較表ですが、

   これらは当時の人達の成長期(幼少時、特に12才頃まで)に於ける極度の栄養失調や重い病気に

   罹った割合が高かった事を示しています。食糧の供給、動物性タンパク質、ビタミンの補給などが不足

   していたと思われます。

   ハリス線と言うのは、人体 200種類以上の骨の内、脛の骨、大腿骨、上腕骨、尺骨などの長管骨

   のレントゲン写真に観察される白く見える横線のことで、白く見えるのはX線に不透明のためで、こ

   の横線は成長が阻害された長骨の海綿質が太くなって骨梁が形成され、長管骨を横断するかのよ

   うに骨幹(骨の中心部)から骨端にかけて現れ、成人後も明瞭に残ると言われています。

   これを詳しく研究したH・Aハリス(1926,1931)の名をとってハリス線と呼ばれていますが、実は日本

   人の浅田為義によって最初に研究されたものです。彼の研究は病理学的研究とウサギを用いた実験

   的研究でした。(1924)

   写真 4−2は、鳥取県の青谷上寺地遺跡出土の人骨からの各症例ですが、左上の脊椎カリエスの痕跡

   のある骨が見つかりました。今迄結核菌の感染は古墳時代からと言われていましたが、これによ

   って我が国への結核菌の伝播は弥生時代にさかのぼりました。全国的に多数出土する縄文時代人

   の人骨からは一点として見つかっていません。この青谷上寺地遺跡の溝の中(環濠と思われる)

   から約5200点、92体分、その内約10体に鉄製武器等による殺傷痕があり、この遺跡が弥生時代

   中期から古墳時代初頭にかけての時期の集落であることから、「魏志」倭人伝に言う「倭国の乱」

2世紀の後半)との関係が注目されました。又3体の頭骨から保存状態の良い「脳」が見つかり

 現在DNA抽出がなされています。この人骨は身長が高く、ル-ツが中国の山東省や青海省とされる

 北九州人や山口県土井ケ浜人とは別の集団と考えられる他、出土遺物から半島との関係が考えられ

 北九州弥生人骨には結核の痕跡が全く無い事から、別ル-トで直接伝播して来たものと思われます。

 写真 4−3は青谷上寺地人の1人のCGでの復顔画です。

   出土した32人の頭骨の内、計測出来る骨は11人分で、男性8人 女性3人 その頭蓋長幅指数に

   よると、男性の半分が長頭、半分が中頭、女性は全て中頭でした。1例を除き全て70%台でした。

 e, 古墳時代人

   縄文時代人、弥生時代人の病変、栄養状態、或いは特定の疾病を主題とした論文は発表されてい

   ますが古墳時代人の病気や栄養に関する纏まった研究は見当たりません。古墳時代人骨が、他の

   時代の人骨に比べて欠損部が多く、全身骨格を観察できる機会が少ない事もその理由の一つと考

   えられます。骨折の多さは縄文時代人、弥生時代人と同様、古墳時代人も例外ではありません。

   利器による損傷は数例報告されていますが、最初の戦乱の時代であったと言われる弥生時代に多

   く見られた武器による傷痕を残す骨は古墳時代に入って激減します。その他先天性異常である脊

   椎分離症、炎症である歯槽膿漏に由来する慢性骨髄炎、結核性脊椎症とも呼ばれる脊椎カリエス、

   外傷性疾患による変形性股関節症、外耳道骨腫等の骨腫瘍、歯牙疾患、栄養障害と関係あるハリス線

   、エナメル質減形成、鉄欠乏貧血症による多孔性骨過形成等が報告されています。又、被葬者の親族

   関係を明らかにする方法として生化学的方法(DNAの抽出法や血液型からの推定)や、頭蓋小

   変異、歯冠計測値を使っての形態学的方法、抜歯風習からの推定があり、親族構造の変遷過程も

   報告されています。

   写真 4−2で示した弥生時代の青谷上寺地遺跡での脊椎カリエスの胸椎発見までは、古くは我が

   国での結核感染を示す人骨出土は古墳時代後期の3例で、結核は古墳時代からとされていました。

   写真 5−1は、6世紀から7世紀後半と比定される横穴墓群である、東京都大田区鵜の木第一号

   墳から出土した50才代と推定される女性の第七胸椎以下第二腰椎にいたる脊椎カリエスで、典

   型的な塊椎形成と亀脊を伴っています。この女性は若い頃に肺結核や脊椎カリエスを罹患しまし

   たが、運良く治癒し当時としてはかなり高齢になるまで生き長らえたと思われます。

   写真 5−2は、最初に報告された千葉県小見川町にある古墳時代後期の城山三号墳出土の壮年男

   性に見られた腰椎、仙骨部分の脊椎カリエスです。もう一つの例は、宮崎県西緒県郡高原町旭台

   地下式横墓から出土した熟年男性に見られました。

   参考写真は、紀元前1000年頃のエジプト第21王朝・アモンの神官のミイラで、顕著な亀背の形成が見ら

   れる典型的な脊椎カリエスの例です。彼の推定死亡年齢は、25〜35才とされています。

   結核の歴史は古く写真 12で述べる中国湖南省長沙市近郊の馬王堆漢墓から出土した  候夫人の

   肺に罹患していた事を示す石灰化した病巣が見つかっていますので、約2200 前に結核が存在

   していた事が明らかになりました。

 

B, ミイラからの例

   土葬された遺体は長い年月のうちに変化し、形が崩れ分解して比較的単純な化学物質になり、土

   と混合してしまいます。 まれに骨が残ることもありますが、ごく少数の遺体は長い時間を経過し

   てもその外形と組織の一部をとどめている場合もあります。中国では、こういう保存のいい遺体

   を3種類に分類しております。

@    (乾  屍)  遺体が乾燥した環境にあり、体内の水分が無くなって出来る。又

                                                 防腐剤を使って人工的に作ることもある。

A    屍 蝋 (   表面が蝋細工のように遺体の外形がよく残っているもの。

                        屍蝋が形成される重要な条件は、周囲の空気が希薄なこと、環境が

                        湿潤なこと、水や土のなかに多量のマグネシウムやカルシウムが含まれている事

                        遺体に元々脂肪が多い事等である。

B    鞣 屍 (ジュウシ )   遺体の皮膚はなめし革のようで、骨はカルシウム分が抜けて折れやすい。

                        周囲にある水や土が酸性の時に形成される。

   この他にどの分類にも入らない「湿屍」という遺体があります。

   生体の崩壊分解・腐敗を意識的・無意識的に阻止しようとし、完全ないし部分的に実現したも

   のをミイラと言います。基本的にミイラには次の三種類があります。

   @ 体の軟部(骨格以外の部分)を人工的に防腐保存処理した場合。

   A 自然にミイラ化した場合。たとえば湿原や氷河での発見例。

B 軟部が人工・自然の双方の影響で保存された場合。たとえばパジリク(シベリア)のクルガン(塚)

      内で発見されたミイラ。またエジプトのミイラも大半はこの範疇に入ります。

     

 a, 日本の場合

     宗教上の理由から、高僧が自らミイラになった例は幾つかありますが一般的ではありません。

@   奥州平泉・藤原四代

   中尊寺学術調査が、昭和25年(1950)行われました。金色堂、須彌壇の中に納められた金棺に

   藤原清衡・基衡・秀衡三代の遺体と調査の結果判明した和泉三郎忠衡の首の四代にわたるミイラが

   ありました。どうしてミイラ化したのかは未だに謎ですが、特に人工の手が加えられた形跡はあり

   ません。

   写真 6は、三代秀衡のミイラですが初代清衡にものは、ネズミや虫害により一部皮膚が残っている

 だけで、その他は骨のみとなっています。基衡・秀衡については比較的損害は少ないのですが、

 それでも皮膚の欠損、胸腹内臓、大動脈等は同じく影も留めていません。

 清衡の所見  頭蓋長幅指数・80,31%  中頭に近い短頭   身長・160cm前後

                死亡推定年齢・ 70才以上(記録では1128年7月13日亡 73才)

                死因は脳溢血あるいはそれに類する疾患が考えられる。

 基衡の所見  頭蓋長幅指数・81,09%  中頭に近い短頭   身長・160数cm

                死亡推定年齢・ 50〜60才位(記録では1157年3月19日亡 死亡年齢不詳 54才)

                死因は推定だが脳腫瘍か卒中が考えられる。

 秀衡の所見  頭蓋長幅指数・78,1%   中頭   身長・160cm前後

                死亡推定年齢・ 70才前後(記録では1187年10月29日亡 66才)

                高齢かつ強烈な武芸等が原因して奇形性脊椎症を起こし、その後その他の外傷あ

                るいは原因不明の骨髄炎性脊椎炎を起こす。これに敗血症等の併発が起これば死

                因になると考えられています。三代に共通してカリエスがあり、歯槽膿漏もあること

                からアイヌ人ではないと言えます。

 忠衡の所見  頭蓋長幅指数・78,2%   中頭   身長は頭蓋のみで不明

                死亡推定年齢・25才位(記録では1189年6月26日亡 23才)

                泰衡説があったが(記録では1189年9月3日亡 25〜35才)忠衡が正しいとさ

                れた。第四頚椎が斜めに鋭く切られている事から斬首され、額部に小孔があるこ

                とからその後釘付けにされたものと推定されます。

 

 

A   藤原 鎌足? 

写真 7は、1934年(昭和9年)大阪府高槻市阿武山の丘陵頂部で、京大地震研究所建設の関

連工事中に発見された阿武山古墳と名付けられた7世紀後半の古墳から出土したミイラです。

当時の新聞には「乾漆製の寝棺に金絲を纏ふ貴人」 主は鎌足公か? と報じられ、急遽恐れ多い
との軍部の圧力によりロクな調査も出来ぬまま、埋葬し直した経緯があります。その後1982

年(昭和57年)に再調査が行われています。この古墳は、溝で画された直径80mの墓域の中央に
地面を一遍18,5mの方形にわずかに削り出した区画があり、その下に長さ2,6m、幅1,1m、高さ
1,2mの石室を地下に埋めていました。石室は花崗岩と磚を積み上げ表面には漆喰を塗ってありました。
磚積みの棺台には脱活乾漆の夾紵棺が完存していました。内部には衣服をまとい、銀線で連珠した
ガラス玉を芯とする玉枕をした老人男性の遺骸があり、頭部から顔面にかけて金箔を螺旋状に巻いた
金糸が発見されました。「多武峯略記」などによって中臣 鎌足が有力とされました。
「大織冠伝」によれば、669年(天智天皇8)10月16日淡海の第に薨じたが死に際して大織冠内大臣
の位と藤原朝臣姓を賜ったとされています。発掘直後清野謙次、三宅宗悦らによって何枚かの写真と
島津製作所の技師達により数枚のX線写真が撮られていました。50年振りに見つかったこれらの写真
を基に新たに検討されました。被葬者は男性で死亡推定年齢は、歯の観察から60才を上限とし、
甲状軟骨の化骨化から50才以上と考えられます。文献によれば55才(614〜669)となっています。
長幅指数は83,3%で短頭で、身長は164,6pと推定されます。大腿骨の強大さは個人的な特徴とみられ、
左肘の関節の骨の突起はスポ-ツ肘と同様で生前、弓の過剰な鍛練によるものと思われます。又、
やや強度の歯槽膿漏が見受けられます。死因としては、第十一胸椎の押しつぶされた変形と付近の
3本の肋骨の骨折、肩の付け根の腕の関節付近の骨折、それらの骨がくっつき始めた生活反応が
あることと、下半身麻痺で寝たっきりのところへ尿路感染か何かの合併症にかかり、それが基で
死亡したものと考えられます。文献によると669年初夏の狩りの折落馬か転落事故をしており、
その3〜4ケ月後死亡したものと考えられます。

 

 

 b, エジプトの場合

エジプトでは乾燥によってミイラ化しますが、古代エジプトにおいては死者をミイラ化すると言う事は単なる
作業ではなく多くの呪術としきたりを伴い、ミイラ師と言う世襲の専門職人と神官とによる宗教儀式
そのものであった様です。そして乾燥には高価なナトロンと言う炭酸ナトリウムを含んだ結晶体の沈殿物を
使用し、脱水作業に多くの費用と労力と時間をかけた様で、決して自然乾燥で出来たものでは無い様です。

 

 @ 全体的な疾患例

    特徴的なのは歯の状態で、摩耗と齲蝕があり殆どのミイラに歯の障害があります。摩耗は王から身

    分の低い国民まで全てのミイラに認められます。これは日常的に食べていたパンに原因があった様で

    す。エジプトの土は気候が乾燥しているので非常に細かく軽く、穀物の収穫時・製粉時・パンの製

    作時等に砂の粒子(長石、雲母、砂岩等)が入り、これが歯をすり減らす原因だったことが明ら

    かになりました。アメンヘテプ三世のミイラは非常に酷い状態にあり、おそらく歯の病気が原因で死亡し

    たものと推定されます。又、エジプトの気候(暑く乾燥しているが、夜になるとかなり冷え込む)

    や砂塵によると考えられる気管支炎・炭肺症・珪肺症などの呼吸器系の病気、骨や関節の結核性

    疾患が多数見つかるので肺結核も同様多かったと推定されます。その他関節炎・皮膚病・ハンセン病・

    ペスト・天然痘・動脈硬化や脳溢血等の痕跡が認められます。

 

A イクナトンの母

新王国時代、第十八王朝 アメンヘテプ四世(イクナトンと改名)の母、テイイは冠状動脈炎に罹っており腎

臓に残された跡から高血圧にも悩まされていたことが、そのミイラから判明しています。

 

B ツタンカ−メン

  写真 8は、第十八王朝 イクナトンの後継で最後の血統者であるツタンカ-メン(在位BC1361〜1352)の

  人型棺です。9才で即位し18才で没していますが、頭蓋長幅指数・83,15%の短頭で古代エジプ

ト 人の多くがヨ-ロッパ系の人種に属する長頭であることからみて、モンゴロイド系の短頭だと言のが

一寸興味を引きます。身長 168cm。

 

C ラムセス二世

  写真 9は、第十九王朝 ラムセス二世(在位 BC1304〜1237)のミイラです。BC1285年強国ヒッタイト

帝国の王ハツトウシリ三世との戦い「カデイシュの戦い」の後、人類最初の平和条約締結。カルナック神殿

7塔門前カシュの中庭西外壁の碑文に残る。なおかつ、歴史上守り通された数少ない国際条約の

第一号としても有名です。死亡推定年齢・96才位。文献では99才。(22才の時即位)

 

D 日本に持ち込みの調査例

    1984年冬、早稲田大学 古代エジプト調査隊がルクソ-ル市クルナ村で出土した200体近いミイラの内、9

    が研究の為日本に持ち込まれました。難しかったエジプト国外持ち出しの許可がおりた最大の条

    件がコンピュ゚--による「顔」の復元でした。この9体の性別は男 4体、女 4体、子供 1体で

    蓋長幅指数では短頭 1体、短頭に近い中頭 1体、その他長頭と言う結果でした。この9体の内

    最も保存状態のよい1体が復顔されました。

    写真 10は、その復顔されたコンピュ−タ−・グラフィクスです。死亡推定年齢・20〜30才、身長・156~7

    p、血液型・A型、若い比較的華奢な女性と判定されました。保存が丁重であったので、この

    女性は貴族階級の出身と推定されました。唯、歯が一本も残っておらず、おそらく虫歯か歯槽膿

    漏に罹って全歯を失ったと考えられました。死因もそれが原因と推定されています。

 

C,アンデス・インカの例

    何故アンデスにミイラがあるか? 一番簡単な答えは乾燥しているから、と言えます。ミイラの出来やす

    い乾燥気候の中で、古代人は立派なミイラが出来る様に色々人工的な工夫をしています。

    ミイラらしいミイラはチャビン期(BC900200頃)末期のパラカス・カベルナスの例が最も古く、遅いのは

    インカ帝国(15世紀前半〜1532年)滅亡後の植民地時代にも暫く続いていたようです。

 

@ その特徴

    アンデス・ミイラの特徴は、頭蓋変形と頭蓋窄孔にあります。アンデスの頭蓋変形には前頭偏平型・後頭

    偏平型・前後偏平型・円錐型があります。板や布、包帯を使っての人工的な変形です。変形の

    目的は、それが“美しい”と彼等が考えたからだと言われます。チャビン期末期、特にパラカス・カベル

    ナスのミイラは開梱した全ての個体の頭骨に開頭術が施されていました。何故それほど頻繁に開頭を

    行ったのであろうか?病気の治療の為とも呪術的な為とも考えられますが、中央アンデスでは金属

    や石の棍棒頭の付いた武器が盛んに用いられており、戦いの時殴打され陥没骨折し、脳の方に陥

    没した骨を切り取っていたとも考えられます。

    写真 11−1は、マヤの例、写真 11−2はインカの例です。メキシコのマヤにおいては歯牙変工と頭

    蓋変工が行われていました。

 

A エル・プロモ山のミイラ

    写真 11−3は、チリのエル・プロモ山 標高5400mの山頂から見つかった、神である太陽に奉げら

    れた子供のミイラです。手足が標準より小さいが健康な89才の男子で、血液型はO型、尻には

    蒙古斑がありました。手に凍傷が見られますが外傷は無く、衣装や持ち物からみてタスコからチリに

    送られてきた、インカ帝国のミテイマである貴人の子であろうと考えられます。チチャ酒を飲まされ人事

    不省のところを高山に運ばれ冷凍死したものと思われます。下に降ろされた後、乾燥してミイラ化

    したものでしょう。

 

d, 湿屍の例

    19727月、中国から出土した遺物は世界中を驚かせました。その副葬品のすばらしさは勿論
    の事、棺の中の遺体はまるで生きているかの様に横たわっていました。中国での文献にはこれと
    似たような状態での発見記録は幾つかありましたが、新たにこれを「湿屍」と名づけました。

 

@    馬王堆第一号漢墓

湖南省長沙市の中心部から4kmほど東の地点に、俗に馬王堆と呼ばれる丘があります。1971年

暮れ、ここで病院の建設工事中に発見されました。最初に発見された墓を一号墓と言い、二号墓

はその西側、三号墓は南側から発掘されました。一号墓がこの両墓を破壊している層位関係が
はっきりした為一番新しいことが分りました。結論から言えば二号墓はBC186年に亡くなった初代
 
侯利蒼、三号墓はその息子(長男以外の)でBC168年に埋葬された墓、一号墓は利蒼夫人の墓で
BC168〜166年頃死亡した事が分りました。この一号墓は、高さ約4mの封土(盛り土)を取り除く
と地下約16mの深さのところに、厚い板で棺の外枠にあたる槨が築かれ、槨は真ん中と四方の五つの
部分に仕切られており、真ん中のスペ-スに四重の木棺を入れ、四方のスペ-スに様々な副葬品が納めて
ありました。

写真 12は、侯夫人の遺体をレントゲン撮影しているところです。遺体の保存状態はかなり良好で、
まるで死亡直後の検屍に近い状態であったと言います。

この婦人は、身長 154cm、体重は34,3sですが生前は70sはあったと思われます。血液型はA型
で死亡推定年齢は50才前後です。持っていた病気の幾種類かは完全な証拠をもって診断されています。
死因は冠状動脈硬化症(冠不全)を患い、それに胆石症の激痛が冠不全の発作、つまり心筋梗塞を
誘発して心臓の律動を混乱させ、それが原因で死亡したと言う可能性が最も高いと言われています。
その他、椎間板ヘルニア(ギックリ腰)で杖をついて生活していた事、又左肺の

上部に結核の石灰化病巣があり肺結核に罹っていましたが、治癒していた事等が分りました。

彼女はマクワウリを食べた直後に死亡した様で、胃の中に138粒半の種がありました。

 

e,冷凍ミイラの例−5000年前の男

   冷凍ミイラは、写真 11−3に示したインカの子供の例の他、シベリア最大の河川オビ河の上流・山地アルタ

イ・標高2500mのウコック高原にもパジリク文化(中国史で言えば春秋・戦国時代)の古墳群があり冷

凍層に封じ込められたミイラが存在します。

   写真 13−1,13−2は、1991年イタリア・オ-ストリア国境付近のアルプスの尾根、標高 3210mのイタリア側

   ハウスラブヨッホで見つかったミイラです。所謂氷河遺体ですが、この遺体は死蝋にならないで乾燥状態で

   ミイラ化したものと思われます。

   この人物は男性で身長 約160cm、生前の体重は50s前後、死亡推定年齢は35〜40才と推定さ

   れます。歯に関しては虫歯は一本もありませんが、摩耗はひどく進んでいた様です。

   体の背骨の左右、膝、ふくらはぎ、足の甲、くるぶし付近に刺青があり、先述したパジリク人と実

   に良く似た場所にある様です。X線の診断結果「腰椎周辺では中程度の変性が見られ、骨軟骨症

   ないしは軽い脊椎症と思われ、又膝と両足かかと付近の距骨関節には中程度の消耗が見られる」

   と言う事で、刺青の個所と骨部の消耗との関係がありそうです。左側の肋骨5ケ所が骨折し、全て

   治癒しておりましたが、右側の4本は骨折して治癒の兆候は全然ないところから「死の2ケ月前か

   ら直前の時期(上腕骨の石灰化の左右の違いから2〜3 週間前迄)に、暴力的な事件が起こり、

   彼は痛む胸を庇いながら、不十分な携帯品を持って否応なく高地へ行かざるを得ず、最後の力を

   振り絞ったが不幸にもそこで亡くなった。彼は逃亡していたのだ」と筆者は推理しています。

 

f,泥炭人の場合

   寒冷なデンマ-クには、至る所に沼や湿地があります。こう言った沼や湿地の周辺に茂る苔や葦や落

   ち葉など植物の残骸が、長い年月の間に水の底に積もって炭化したものが泥炭で、乾かせば燃料

   となります。この泥炭の中から想像を絶する遺物が出土します。これらの遺物は各時代にわたっ

   ていますが、特に立派な遺物は現在のデンマ-ク人の祖先、原始ゲルマン人が活躍していた初期鉄器時代

   (紀元前400〜紀元400)、ほぼ南方のロ-マ時代に相当する時代のものです。その理由は、デンマ-クの

   特産「琥珀」や北国の特産品、奴隷などの商品が南へ送られ、その見返りとして豊かな財貨が入

   り、その一部をゲルマン人は神への供物として沼に沈めたと言われています。

   デンマ-クは中世から「死者財産法」と言う法律があり、地中から発見される遺物は全て国王に帰属

   し、その発見者には何がしかの報奨金が支払われることとなっていました。こうして王室には大

   量の遺物が収集され、1807年王室からこれらの収集の整理を委託されたのが、コペンハ-ゲンの人

   クリスチャン・トムセン(1788〜1865)で、これらの遺物の組み合わせに石器・青銅器・鉄器の三種類があ

   る事に気付き、これを「北欧古代史入門」と言う書物に発表しました。これが今日、文字以前の

  人類文化史を区分する石器時代・青銅器時代・鉄器時代と言う「三次期法」の起こりです。

   先史考古学の理論はここに誕生しました。

 

   写真 14は、1950年5月デンマ-ク・ユトランド半島中部のピエ-デルスコウ谷にあるトル-ンの沼で、燃料にす

   る泥炭を掘っていて発見された時のトル-ン人の遺体です。革をって作った丈夫な紐が首に固く

   巻き付いた、り殺された人の遺体だったのです。泥炭層の層位から間違いなく初期鉄器時代の

   物である事が明らかになりました。法医学者は、絞首刑説を強く支持しました。

   年齢は知歯(第三大臼歯)の出現から、少なくとも20才以上と推定され、胃の内容物から、この

   トル-ン人は「最後の晩餐」を摂って12乃至24時間後に殺されたものと推定されました。

   最後の食事のメニュ-は、裸麦・亜麻仁・ニワヤナギに種々雑多な雑草の混じった粥で、肉類

   は、おそらく全く入っていなかった様です。

                     以上

 

 

 

 

 

出典・参考文献

・発掘された日本列島 2002                 朝日新聞社    2002

・新病理学総論             菊地浩吉、吉木 敬   南山堂      1998       

・骨から見た日本人           鈴木隆雄        講談社選書メチエ 1998

・世界大地図館             テクノアトラス     小学館      1997

・甦る化石人骨 骨のメッセ−ジをたどる 道方しのぶ       勉誠社      1997

・5000年前の男   コンラ−ト・シュピンドラ− 訳畔上 司 文芸春秋     1994 

・日本人と日本文化の形成        埴原和郎        朝倉書店     1993

・蘇った古代の木乃伊−藤原鎌足                 小学館      1988

・貴族の墓のミイラたち         吉村作治        NHKブックス  1988

・縄文時代の研究 T          加藤晋平他       雄山閣      1982

・弥生時代の研究 T                      雄山閣      1989

・古墳時代の研究 T                      雄山閣      

・疾病の地理病理学           山口誠哉他       朝倉書店     1980

・オリジン       R・リ−キ−、R・レ−ウィン訳岩本光男 平凡社      1980

・古代文明の謎と発見 5「ミイラは語る」            毎日新聞社    1978

・中尊寺と藤原四代           中尊寺学術調査報告   朝日新聞社    1950

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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