平成15年度前期「アジア考古学研究T」レポ−ト                         

             東アジア・初期鉄文化の推移 

          〜弥生時代500年かさ上げ問題を考える〜    2003/08/07

030505 倉本 卿介

はじめに

 平成15年5月19日、国立歴史民俗博物館は、加速器質量分析計を使った放射性炭素

14C)年代測定法で、北部九州出土の土器を調べた結果、水田稲作が伝来し弥生時代が

始まった実年代は、定説の紀元前5世紀から約500年遡った紀元前10世紀頃と分かっ
たと発表した。

年代測定の対象になった資料は、水田稲作の農耕具などが出土している福岡市の雀居遺跡、

佐賀県の梅白遺跡など弥生早期から前期の遺跡や韓国の遺跡、計12ケ所から出土した約

30点に付着したおこげやススなどの炭化物と、くい。

早期後半の夜臼U式の土器は、紀元前820年を中心とした前9世紀、前期初めの板付T
式は前800年から前770年と測定された。

水田稲作が始まったとされる早期前半は夜臼T式で、夜臼U式よりも一型式古いため、同
博物館は紀元前10世紀の可能性が高いと判断した。

福岡市の板付遺跡などから出土した板付T式や同U式の前期土器は、全て前800年から

前400年。前期の終わりが分かる資料は無かったが、年輪年代測定法の成果を考慮して
前400年前後と推定した。

水田稲作の伝来は、中国・春秋戦国期(紀元前8〜前3世紀)の燕の動静が影響したと解
されてきた。日本列島に影響を及ぼした文明・文化は、中国本土に発し、燕が占める河北
や東北部の遼西・遼東地域、朝鮮半島を経由し波及されたものと考えられる。

弥生時代の始まりは紀元前5〜4世紀、水田稲作の伝来と同時に青銅器・鉄器も伝来され
たと考えられている。その時期が500年繰り上がると言う事になれば、これまでの考古学
の成果に対してどう説明が付くのかが重要な問題となる。そこで中国の初期鉄器文化発生
時期から、それがどの時期に其々の地域に波及していくのか概括的に検証し、本邦の弥生
時代の開始時期について“鉄器の面”から考察してみたい。

 

第一章 中国の初期鉄器文化

 考古学における時代区分は、人類の使用した道具の材質から、石器時代・青銅器時代・

鉄器時代の三つの時代に区分している。ただ石器時代はその後旧石器時代・新石器時代に、
又その過渡期の中石器時代と細分されている地域もある。

その中で鉄器時代は、青銅器にかわる新しい金属として登場し、現在も継続している。

今日、鉄の発祥地は西アジアにあるとされている。西アジア各地で出土している最古のグ
ル−プの鉄器は紀元前3000年から前2000年にわたる時期のものだが、分析の結果

それらは、人間が作った「人工鉄」ではなくニッケルを多量に含む「隕鉄」と言う自然鉄
であった。しかしこの「隕鉄」の他に「人工鉄」も存在するかも知れないが、人間の手によっ
て鉄が生産されたからと言って石や青銅からすぐ鉄に移行する訳ではなく、それらに優る
材質となる技術的能力が高まるまで待たなくてはならなかった。

アナトリア高原に出現したヒッタイト帝国(紀元前1650年頃〜前1200年)が、最初
に人工鉄を作り独占したとされるが、定かではない。

しかし、その滅亡後の紀元前1200年頃から急速に四方に拡がり、紀元前1200年〜
前1000年頃にはペルシャに、紀元前1200年〜前700年頃にはエジプト、紀元前
900年頃にはアッシリアに、さらに紀元前600年頃にはその製法がヨ−ロッパに伝えられたと言
う。これらの流れとは別に中国独自の鉄器文化が成立したのか、又は西アジアの鉄器文化
が中国に伝えられたのか、定かではない。しかし、鉄の伝播にあたって東方に重要な役割
を果たしたのはペルシャ、今日のイランの地域で、イラン高原西南部に位置するシアルク
遺跡の紀元前1200年から前1000年頃のシアルクA墓地では、多量の青銅器の中に
青銅製の柄を持った鉄剣が出土している。紀元前1000年紀初め頃のシアルクB墓地では、巧
みに鍛造された鉄製のフォ−クやリュトン形の容器が見られるが青銅の占める割合は依然
として大きい。イラン西北部の地域ではハサンル−遺跡の第五層から鉄器時代に移行する。
これは紀元前1100年から前800年頃であり、前550年頃迄には完全に利器化する。
このイランの鉄は、アゼルバイジャンの地域から一つはザグロス山脈に沿って東南に、
もう一つはアルボルツ山系に沿って東方に拡がり、前者はインド、パキスタン方面に、後者
は中央アジア方面に大きな影響を与えている。漢代になれば、シルクロ−ドを経て良質の
鉄剣が西方の諸国に齎されている。

 

中国における鉄使用開始のその最も古い時期に位置づけられるものは、文献『詩経』公劉篇
に見られる「取試謫S」の句から、鉄の生産を想定するものであり、降っては『左氏伝』に見える「賦晋
国一鼓鉄、以鋳刑鼎」の記事から昭公29年(紀元前513年)の鉄の使用を肯定するものがある。

考古学的資料で『詩経』公劉篇の鉄の存在を肯定するものに、殷代の河南省濬県衛輝府出土と言う
「鉄援銅戈」と「鉄刃銅鉞」(紀元前13世紀〜前12世紀)、華北省藁城県台西村出土の「鉄刃銅
鉞」、同じく北京市平谷県劉家河村から出土した「鉄刃銅鉞」があるが、いずれも鉄部は
隕鉄鍛造
であった。尚、殷・周代の戈には援の部分にしばしば玉や石が利用されており、実用の武器
と言うより儀器としての性格が強いと言える。これに鉄(隕鉄)が使用されることは、
鉄が玉や石と同様な取り扱いを受けていたと言うことであり、鉄はたとえ珍貴な物質で
あっても実用的な金属とは考えられていなかったと思われる。

その後の出土資料で人工鉄として最古のものは、河南省三門峡上村の北国の墓から
出土した「銅柄鉄剣」で、炭素量0.2~0.3%の軟らかい人工鉄の短剣(20cm位)である。

時期は西周晩期(紀元前850年〜前800年)頃であるが、同時に出土した戈は刃部のみ

「隕鉄」であった。この様に殷・周の時期は「隕鉄」と共に「人工鉄」も生産されていた
が、利器として使用し得る硬さの技術がまだ開発されていなかった事を物語る。

中国の鉄器文化の成立にあっては、西アジアに共通する「隕鉄」の使用、利器になり得な

い「錬鉄」の使用などから始まっており、この動向は鉄文化成立の原初的な様相を示している。

春秋晩期(紀元前5世紀後半)の陝西省宝鶏益門M2号墓からは、金の柄に人工鉄が装着
された「金柄鉄剣」と素環頭刀子が出土。この素環頭刀子の形は漢代まで存在するので
中国製だったと思われる。湖南省長沙市揚家山M65号墓も春秋晩期の墓で、鉄剣 1、
鉄鉇 1、鉄鼎形器 1が出土している。鉄剣は茎・鐔は青銅製で、剣身は炭素量0.5%
退火中炭鋼で、7ないし9層の鍛造品と言う。柄頭部は欠損しているが全長38.4cm、身の
長さ30.6cm、幅2.0~2.6cmで鉄短剣と言うべきだが、武器として充分使えるものと思われる。

鉄鉇は長さ17.5cm,幅約3cmで両側に刃があり、先端が尖り断面は弧状をなす。鍛造され
たものであろう。鉄鼎形器は、口径約10cm,高さ6.9cm,脚の長さ1.2cmで、口縁に環状
竪形の耳がつく。通常の鼎よりも著しく小形で、形態もやや相違するが青銅製から鉄製に
変わった最初の容器であろう事は重要である。炭素量4.3%の白銑鉄の鋳造品と思われる。

これより少し時代が降る紀元前5世紀前後、同じく長沙市長窯15号墓からは、口径23

cm,現存の高さ21cmで口縁下に環状の耳が一対あり、丸底の底部側辺に扁菱形の三足が付
いている炭素量4.3%の亜共晶銑鉄で鋳造の鉄鼎が出土している。この二例はいずれも楚国
の小型墓であるが、鉄剣・鉄鉇は「固体還元法」による鍛造品と思われ、鉄鼎形器・鉄鼎
は「高温液体還元法」による鋳造品であるので、この地方は両者が共に製作されていたと
言える。この様に中国の場合、世界的にも類の無い銑鉄の生産へと拡大し、鋼の確立はむ
しろ鋳造鉄器の後に位置づけられ、独自の鉄文化の発展を示している。古代中国の特徴的
な鉄器である銑鉄鋳造のものは、考古資料でみる限り春秋晩期から戦国早期(紀元前40
0年前後)に出現したと思われる。西周晩期の最も古い出土例があるが、鉄製の農耕具や
武器としての出土例が増加するのは春秋末戦国早期以降である。春秋晩期から戦国早期の
鉄器出土例は約20数例あるが、これらの出土遺跡のうち鉄器の種類と量からみると、楚・
韓・燕の地域が注目される。中晩期になると、戦国七雄と言われる国の全地域から鉄の農
具または鉄器が発見される。楚の領域のさらに南の広西壮族自治区平楽県銀山嶺の戦国墓
は、古代越族の生活地域とみられる。武器類は青銅製のものが圧倒的に多いが、工具類は
青銅製と鉄製の両者がある。竹・木類の加工具と言われる鉇は鉄製のものが中心となり、
工具類は鉄鋤の一種類に限られているが実際には多くの木製農具があると思われ、この
傾向は戦国時代の鉄器の在り方を特徴的に示す。生産工具類の多くが青銅器から鉄器へと
変化するのは、戦国中・晩期である。武器類は春秋末から戦国中期に至るまでは青銅製が
中心であり、鉄製武器類は戦国晩期に限られる。そしてその地域は、現状の発掘資料では
燕と楚の地域に限られ、鉄製武器類はその両地域から普及しはじめたと思われる。

次に、朝鮮半島に強く影響を及ぼしたと考えられる燕の鉄器文化について考察を進めたい。

 

第二章 中国戦国時代 燕の鉄器文化

 燕国は、『史記』燕召世家によると召公奭が、殷を滅ぼした周の武王よりその功績により、東北
の護りのため封じられた地域で、薊(北京市房山にある瑠璃河遺跡がその都址とされている)が都で
あった。しかし、河北省易県の地から「匽候旨」と呼ばれる人物の青銅器が発見され、その青銅器
の時期が西周前期(武王、成王、康王頃)のものから、この人物は召公奭に非常に近い人物である
事が分かり、さらに遼寧省凌源県馬廠溝から、やはり「匽候」と言う銘文のある同時期の青銅器
(盂)が発見され、成王から康王にかけての時期に召公の一族が北京一帯に封じられたことが分か
った。燕候の器が遼寧省凌源県に近い喀左県からも出土し、燕の版図は東に向かってかなり広が
って
いたと思われる。大・小凌河流域において西周後期以後、青銅短剣文化が拡がるようになる。
即ち、紀元前9乃至8世紀頃、遼寧式銅剣と呼ばれる刃部が独特な形態をした短剣文化が現れる。
刃部が琵琶形を呈するから琵琶形銅剣と呼ばれたり、出土地が遼寧省に集中する事から遼寧式
銅剣とも呼ばれる独特な青銅短剣である。

剣身とは別に鋳造される柄はT字形をしている。これは遼西を中心地として、遼東さらに南は朝鮮
半島まで拡がる様になり、朝鮮半島ではその後独特の細形銅剣として変化していく。又、時代は遡
るが紀元前2000年頃か少し古い頃の双砣子一期文化併行期、鴨緑江下流域では二重口縁に縦
の微隆起文を特徴とする土器に代表される偏堡文化が拡がっていたが、双砣子文化の影響を強く
受けた新岩里一期文化が成立する。大型の壷形土器や高杯の登場など、従来の器種組成とは大
きく異なっているが、他地域と異なり三足器を受け入れていない。この頃を境に石器組成も大きく
変化し、磨製石庖丁・環状石斧・磨製石槍・扁平片刃石斧・石鑿が加わる一方、従来のすりうすや
打製の土掘具が消える。わが国の弥生農耕文化に連なる石器組成が成立し、これが朝鮮半島を
南下して日本列島に入る事となる。山東半島東端の龍山時代の遺跡からコメが見つかっている事
から、この時期に遼東半島に山東半島経由で入っていた可能性があろう。

西周初め召公の一族が東北の護りに封じられた燕国は、その後中原から遠く離れていたためか、
周囲の鮮虞や山戎の勢力が強く分断されていたためか、ひとりわが道を行くと言う色彩が強く、
春秋時代の文献に現れることは少ない。しかし、戦国時代になると「戦国の七雄」と言われるほどの
強国になった。燕山以北にいた山戎や東湖(匈奴)と呼ばれた集団の南下にたびたび悩まされた
燕は、紀元前300年前後に東湖を追い遼西から一気に遼東に進出したと『史記』は言う。

そして燕は遼西郡、遼東郡など5郡を設置して、これらの地域を支配した。

この中原勢力の遼東への進出は東北アジア全域に大きな変革をもたらした。

燕では戦国時代中期から後期に、鍛造による鉄製の武器・武具が発達する事から、東方の青銅器
社会より優位に立ったと思われる。大・小凌河流域の青銅短剣墓の終末は戦国時代中期、紀元前
4世紀頃まで降るが、一方で遅くとも戦国中期まで遡る燕系の墓が同一墓地に存在しており、既に
燕文化の影響を強く受けている事などから、燕山以北への燕の進出は『史記』に記される以前から

始まっていたと思われる。遼西と遼東、そして鴨緑江下流域との間に文化の伝播が見出される
事は、燕の勢力拡大と共に当然、鉄器文化の伝播も大いにあったと考えられる。

戦国時代後期、紀元前3世紀以後、遼東では農具や工具はそれまでの石器や一部の青銅器が急

速に鉄器に置き換わる。青銅器は武器が多かったが、鉄器には農具が多いのが特徴であり、農業
生産力の向上に大いに寄与しただろう。撫順の蓮花堡遺跡(戦国晩期から前漢初期)での出土品
をみると農具の比率が高く、(かく)と呼ばれる斧形の土掘り具や穂積み具には石製
と鉄製があり、まさに石器から鉄器への転換期であった。それが東に拡がるにつれ土掘り具などの農具
が欠落し、木器を作る工具が主となっていく事は、それだけ鉄器が希少、貴重であった事を示している。

燕の領域は鴨緑江中流域にまで拡大し、北の匈奴に対して延々と長城を築き対峙している。

燕そしてそれを踏襲した秦の長城は、今の平壌市付近まで達していたと言われる。

その他、燕が強国になった理由の一つに、遼東の煮(塩)があったからと思われる。

戦国中期紀元前4世紀、河北省易県に建てられた燕の都・下都は、この時期における最大の城市
であり、鉄の工房空間を有している。この燕下都の戦国早期(紀元前5〜4世紀半)の墓から多量
の鉄器が出土している。燕下都一六号墓から、環頭鉄刀子 1、鉄鍬先 5、鉄鋤 1、鉄槌 1が出
土した。環頭鉄刀子は、全長20cm前後(切っ先が欠損)の鍛造品と推定される。鉄鍬先は、長方
形を呈し偏平方形の袋部をもち、袋部の端部付近に二条の隆帯をめぐらすものと、無いものがある。
長さ14.4cm,刃部幅6.5cmなどがあり、断面方形の袋部ならびに隆帯の存在から鋳造品と考えられ
る。鉄鋤は、長さ21.6cm,基部の幅9.8cm,刃部の幅16cm,厚さ1cmで梯形の平面をなした板状の
もので、全体にゆるやかに内彎する。この形態の鋤は、石製のものから直接鉄器化している様に見
える。鉄槌は、長さ11.2cm,5.4cmの隅丸方柱形で中央に柄を挿入する長方形の孔がある。

この一六号墓出土の鉄器は、数は少ないが工具・農具からなり鍛造品と鋳造品の両者が存在した
様だ。燕下都三一号墓上部出土の片斧は、長さ15.2cm,刃部の幅9.7cmで両側部がやや内ぞりを
なし、刃部はゆるやかに外彎する板状の斧で、この片斧は戦国晩期の燕下都二二号墓遺跡からも
出土しているところからすると、燕の地域の特徴的な鉄器と言える。同じく環頭鉄刀子の環頭端の
特徴的形態は、これも燕下都二二号墓遺跡に類例があり、燕の地域の特徴的な鉄器と言える。

戦国中期の出土例は少なく晩期のものが多いが、鉄器類の普及は戦国中期から晩期にかけ
ての頃と考えられる。先述した燕下都二二号墓遺跡からは、環頭鉄刀子他64点の鉄器が出土
している。この遺跡は骨製品及びその素材と廃棄された多量の骨片から、骨製品の製作址と推定
されるが、この付近には鋳兵器址(第18遺跡)、鋳鉄址(第23遺跡、第21遺跡)などが分
布しており、手工業の工房が集中している。出土鉄器は鉄刀子 12、鉄斧 7、鉄片斧 2、鉄鑿
 1、鉄錐 17、鉄槌 1、鉄鍬先 6、鉄叉鍬 1、鉄鋤 1、鉄鎌 2、鉄器柄 1、鉄棒 1、有孔鉄
器板 1、鉄帯鉤 2と鉄柄銅鏃からなる。これらの鉄器の中で渦巻き形の環頭刀子、円形の袋部
をもった幅広の鑿、環状の柄のある錐は、鍛造品の特徴を持ち、斧・叉鍬・鎌などは鋳造品と言え
る。ここでは鍛造品と鋳造品の両者が見られるが鍛造品は工具類に多いと言える。

燕下都四四号墓は戦国晩期の遺跡で、通常の墓と違い不自然な状態で、人骨22体とそれ

に伴出した武器類や布貨幣などが多量に出土した。戦闘などの後、一括して納められた様である。

出土鉄器は鉄冑 1、鉄剣 15、鉄矛 19、鉄戟 12、鉄鐏 11、鉄刀 1、鉄
鉇(匕首)4、鉄六角鍬 1、鉄鍬先 4、鉄帯鉤 3、鉄環 7、鉄柄銅鏃 19並びに青銅製
弩機の外廓座に鉄が使用されていた。これらはいずれも鍛造品であり、鋼のかなり組織的な生産
があったことを裏付ける。これらの武器類は春秋末から戦国中期に至るまでは青銅製が
中心で
あり、鉄製武器類は戦国晩期からである。尚、ここから明刀銭が纏まって伴出している。

燕下都四四号墓の鉄器類のうち武器類は、全て固体還元による海綿鉄から作られている。

鍛造の鉄器類は、まず固体還元による海綿鉄を鍛打して錬鉄を生産し、それをそのまま
使用したものと、加熱徐冷によって滲炭しその硬さを増したり、さらにはこの様な鉄材を
合鍛えにより成形し、最後に焼きを入れて鋼とする方法が開発されたと考えられる。

鋳造の鉄器も加熱脱炭により銑鉄の脆さの処理がある程度解決された様である。鉄器を鋳
造するのには一般的に陶笵を用いた。この種の笵は、ただ1回だけ用いられるだけだから
生産能率から言えば一定の限度を受けもつ。燕は下都以外でも採鉱から鉄・鉄器生産にいた
る一貫した操業を行なっていた。その一つ、河北省興隆県・寿王墳遺跡(戦国晩期)から
出土した鉄笵は、当時の鋳造技術を知る上で特に重要な意義を持っている。この一群の笵
40(つい)87点あり、斧笵・鑿笵・鍬先笵・鋤笵・鎌笵・車具の笵がある。
この87点の出土鋳型のうち、斧30,鍬先47だけで計77点になるところからすると、ここでは
工具としての斧、農具としての鍬先に生産の中心があったと言える。これらの本身は鋳鉄物で、
同時にまた鋳鉄の金属型でもって製作されている。笵には比較的複雑な複合笵と双型腔があり、
笵の外形の設計は、鋳造する時に各部分の温度を平均に保つようにしてある。同時にまた
鋳物の変形を防止するための加強構造と、現在でも処理に容易でない金属型芯を採用して
いる。金属型の応用は鋳造工芸上の一つの重要な発展である。この種の笵はよく連続使用
に耐え、鋳成された器物にもあまり加工しなくてもよく、生産能率と資力節減の効果が
ある。これらの鉄笵の存在は、鋳造鉄器の大量生産を示すものであるが、当時官営的な
工房だけでなく一般庶民への鉄器の供給を目的とした生産工房も、下都の城内で行なわ
れていた様である。

戦国時代末から漢代初頭に、遼西郡、遼東郡に隣接する地域も、中国と言う強国との対峙の必要
から伝統的な社会が大きく変容していく。朝鮮半島の西北地域は戦国時代に、燕人と周辺民族と
の領域を画する燕国の長城の東端にあたり、漢民族の文化が半島に流入する窓口でもあった。

 

燕は紀元前222年に秦によって滅ぼされる。その時期、朝鮮半島は箕子朝鮮が支配していたが、
紀元前194年、衛満によって滅ぼされ今の清川江を境に、その南に衛氏朝鮮が成立する。

さらに、遼東山地東部には高句麗が、それ以前西団山文化が展開した地域では夫餘が登場する。
衛氏朝鮮は鉄器を本格的に使用し始めたとされる。

第三章 朝鮮半島の鉄文化形成と燕との関係

朝鮮民主主義人民共和国の鄭白雲氏は、戦後の新出土資料により朝鮮における鉄使用開始
時期を遅くとも中国の戦国時代とし、燕の地域における鉄器時代の開始と同時期と考えている。

一方、現在の韓国の高等学校歴史教科書では朝鮮の初期鉄器時代を紀元前300年頃から紀元
前後とし、前の青銅器時代に続く第2次青銅器時代とも言え、この時代の特徴的な遺物には、細形
銅剣・多鈕細文鏡をあげる事が出来ると教えている。

朝鮮半島では、新石器時代に続いて紀元前10世紀頃に、遼寧省・吉林省地方を含む満州地域
から青銅器文化が入り、青銅器時代が始まった。特に特徴的な遼寧式銅剣は、朝鮮半島北部に
おいても、宝器あるいは威信財としてT式銅剣が紀元前5世紀に入り、その後遼西が燕による文化
的あるいは政治的な影響を受けることにより、遼西の遼東に対する軍事的な脅威が遼東をして、
武器的な機能を高める新式の遼寧式銅剣へと転換させ、同様に朝鮮北部にも影響を与える。その
結果紀元前4世紀にはU式銅剣と言う武器的な機能変化として現れる。朝鮮半島北部から中部に
分布するV式銅剣においても、同じ様相を呈する。しかし同時期、朝鮮半島南部海岸部では独自
の製作と認められる、宝器あるいは威信財として利用されたX式銅剣が存在する。

この分布範囲はほぼ松菊里文化圏に相当する。さらに紀元前300年頃の、燕の遼東までの直接
統治による領域化により、遼東内陸部や朝鮮半島北部における軍事的な脅威が高まり、この過程
でUc式銅剣の系譜を引きながら朝鮮半島北部において、典型的な細形銅剣が開発されたものと
考えられる。(宮本 2002)  韓国の全 栄来氏は、細形銅剣の出現・普及は紀元前2世紀とみて
いる。多鈕鏡は、朝鮮半島の青銅器の源流となった中国遼寧地方で紀元前6世紀頃出現し、その
影響によって半島独自の多鈕粗文鏡が紀元前3世紀(3世紀初頭と思う)頃に出現、さらにそれを
祖形とした多鈕細文鏡が紀元前2世紀(3世紀後半と思う)頃に成立する。これは武帝による楽浪
郡の設置以降、中国系文物の流入と共に前漢鏡と交代し消滅する。その出土地は両鏡とも漢江流
域を除き、大同江流域および錦江流域の南西地域、多鈕細文鏡はさらに日本海側にも分布する。
(岩永 2002

無文土器は、上限を紀元前13世紀あるいは15世紀と言う説もあるが、無文土器遺跡の放射性
炭素年代が紀元前1000年前後に測定される事が多く、次第に優勢になっている。

下限は半島中部以北地域では紀元前300年前後、南部地域は紀元前200〜前100年頃とみる
意見が多い。(李 白圭 2002)   これらの文化のなかに鉄器文化が波及して来る。

森 浩一氏によると、朝鮮半島における初期鉄器文化は、概ね次の三つの段階を経て三国時代に
至っていると言う。

第一段階は、戦国時代に中国の東北地方に拡がっていた燕の文化の影響を受け、まず鋳造鉄斧
を受容する段階で、朝鮮考古学では無文土器文化に編年される。

最初の鉄器文化がその内容を豊富にしたのが第二段階で、特に土壙墓の副葬品として細形銅
剣・銅矛などと共に、斧・鎌などの鉄器が出土する。これらの土壙墓では、しばしば燕の貨幣である

明刀銭を伴っている。これらの鉄器は鋳造品で、特に鉄斧の鋳型の存在から鉄器製作を行なって

いた事が分かる。これらは主として北部朝鮮に分布している。慈江道渭原郡崇正面竜淵洞遺跡や
咸鏡南道永興郡所羅里土城内遺跡等を第二段階と考えている。

第三段階は、鋳造鉄器から鍛造鉄器へと技術の主流が転換するが、鋳造技術が消滅したのでは
なく三国時代にも鋳造鉄器は製作されている。この段階になると鉄器出土の分布範囲も広がり、
出土数も飛躍的に増加する。やはり土壙墓の副葬品として発掘されるものが多く、剣・矛・刀・刀子
などの武器類、鑿・斧・鎌などの農工具、銜・轡・車軸頭などの車馬具などがあり、前漢の遺物が
伴う事があるので前漢末から後漢前半としている。

一方、潮見 浩氏は朝鮮の初期鉄器の様相を、大づかみに三つに纏めている。

慈江道渭原郡崇正面竜淵洞遺跡は第1の様相とし、その鉄器の多くが隣接する中国の東北部、
特に遼寧地域との密接な関係をうかがわせ、青銅器文化も遼寧との関係が密接な事から、鉄器出
現以前からの交渉があったとして、これらの鉄器類が遼寧地域から齎されただけでなく、遼寧地域
の人々が鉄器類を携えて来たとも想定しうると述べている。この鉄器出現時期は、遡っても戦国晩
期に相当する紀元前3世紀頃であり、この様相は現在のところ西北朝鮮に限られるとしている。

第2の様相は、咸鏡北道会寧郡五洞遺跡に代表される様に定着的な生活圏の中に、鉄器類や
中国系の土器類が持ち込まれる状態で、無文土器文化の中により進んだ道具・技術を導入し、
これを一つの契機として新しい生活段階に進展、咸鏡北道茂山郡茂山虎谷遺跡、平安北道寧辺郡
梧里面細竹里遺跡などでは引き続き朝鮮独自の鉄器を生産しており、各遺跡の側に主体性を
認め鉄器類を受容し発展させる基盤が既に形成されていたとし、朝鮮の西北地域から東北地方に
拡がり、さらに沿海州の一部まで達しているが、正確には新遺跡の検出まで待つ必要があると述べ
ている。この時期は鋳造鉄器の特徴から、遡っても中国の戦国晩期に相当する紀元前3世紀であり、
朝鮮独自の鉄斧の出現を考慮すると、紀元前3世紀から前2世紀頃と推定している。

第3の様相は、多鈕細文鏡・細形銅剣類に伴出する、主として墳墓関係から出土する鉄器類であ

るとする。そしてこれは、おそらく第2の様相の一部とも関連し、集団の中から出現した族長層が、
伝統的な青銅器類の他に鉄器類をも保有し始め、墳墓の副葬品としている。それは鋳造の鉄斧が
中心で、鉄器類の中で特に象徴的な存在の様に見える。その時期は第2の様相の時期に共通す

るが、若干時期をさげるべきかも知れぬが、鉄器の品目を増加させながら完全に鉄器を中心とした
ものに転換し、三国の成立まで連続すると述べている。

森氏の第二段階、第三段階は、潮見氏の第3の様相に相当している様に思われ、森氏の第一段

階は潮見氏の第2の様相を示し咸鏡北道会寧郡五洞遺跡や咸鏡北道茂山郡茂山虎谷遺跡
などから設定されたか、或いは咸鏡南道咸興市会上区域梨花洞遺跡や黄海南道白川郡石山里
遺跡などの多鈕細文鏡を伴う鉄斧を副葬した墳墓の遺跡から設定されたと思われる。

私は全体的に潮見氏の説を支持するが、森氏の第三段階は首肯しうる。

第三章のテ−マである朝鮮半島の鉄文化と燕との関係については、初期の鉄文化は潮見氏の言
う第1、第2の様相に相当するが、鉄文化の通史ではやはり前漢武帝による楽浪郡の設置(紀元前

108年)が、大きく影響していると思う。次に現在の北朝鮮の地域を含む朝鮮半島から出土する初

期鉄器類について述べる。と言うのは、私はその当時燕人、又は遼東人の勢力は鴨緑江を渡り、
清川江近くまで浸透していたと考えている。

朝鮮半島における鉄使用の開始を考察する資料の一つとして、河原石による直径3.6mの円形
積石墳墓と推定される、鴨緑江中流域の慈江道渭原郡崇正面竜淵洞遺跡がある。

戦国晩期、紀元前3世紀頃と比定されるこの遺跡から、多数の明刀銭と共に鉄製武器・工具、農具
類の鉄器が出土した。出土遺物は鉄矛 2、鉄斧 2、鉄
鉇 1、鉄鍬 1、鉄鋤 1、鉄鎌 1、
丁形鉄器 1、鉄鏃 1、三角錐銅鏃 1、銅帯鉤 1、明刀銭多数。この貨幣の中に燕の一
刀、明化などの円銭を含まないところから、この遺跡の時期は戦国時代最末期ではないとされる。

又この鉄製品の組成は、燕の鉄器の典型的な組成を示している。尚、朝鮮におけるこの明刀銭
類の出土遺跡は、現在12遺跡(他に伝とされるもの3遺跡)あり、それらは慈江道・平安
北道・平安南道など主として西北部に分布している。その内鉄器を伴出した遺跡は、平安
北道寧辺郡梧里面細竹里遺跡,平安南道徳川郡青松労働者区などがある。

鉄矛は長さ32.5cm32.1cmの2例があり、前者は鋒部の長さ16.7cmで袋部と鋒部付近は断面方
形をなす。後者は鋒部の長さ14.5cmでやや短く、鋒部の末端両側に刳り込みが見られ、鋒部の中
央に鎬が通らず、断面は五角ないし六角形を呈する。
燕下都四四号墓出土の鉄矛は鋒部が短く
袋部の長いやや小形のT式 2例、全長33.9cmから37.9cmで、前者より鋒部の長いU式 16例、
及び全長66cmに達する長大なV式 1例の3種類があるが、竜淵洞例はその形態並びに大きさ
からみるとU式に共通し、
燕下都四四号墓の一般的な鉄矛に通じると言えよう。

鉄斧は長さ16.35cm16.0cmのほぼ同大の2例がある。袋部から刃部にかけて、やや内ぞり気味
になり、袋部断面は梯形を呈する。刃部を除く側縁端が隆起しており、鋳造品の特徴をよく示して
いる。その形態的特徴から見ると、明らかに鋳造品であり、戦国から前漢に通有な形態と言えるが

竜淵洞例のように、やや内ぞり気味の側縁をなし、刃部幅が袋部基部の幅より狭い傾向は、中国
では斧としてよりも鍬先に分類されているものに近い。類例は遼寧省貔子窩高句
C遺跡の斧形品
や、敖漢旗老虎山遺跡(戦国時代)の鍬先、撫順市蓮花堡遺跡(戦国晩期から前漢初期)の鍬先
に共通した形態的特徴を示している。

鉇(尖頭器)は長さ15.7cm,2.4cm,厚さ0.27~0.35cmで、尖頭器と報告されているが、

先端部の両側に刃部があり、先端に反りの認められるところからも、鉇としてよい。

中国においてもその出土例は多くない。竜淵洞例に近いものは、燕下都二二号墓出土のW式
錐と分類されている匕首形のもの、鉄矛と同様に
燕下都四四号墓出土の四例の匕首があげられ
る。前者は全長14.5cm,1.7cm,後者は全長16.6cm,1.6cmで、表面に木質の痕跡を残
すものもある。これらと竜淵洞例を比較すると、ほぼ共通した長さであるが、幅からみると差が
あり、竜淵洞例はやや幅広の特徴を示している。

鉄鍬は長さ24cm,刃部幅7.2cmで、柄を挿入する柄穴は長方形で、高さ2.28cmの角柱状をなして
いる身部中央の分厚い部分から側縁に移行する場所に細い溝がある。この溝は中原に見られる鍬
とは趣を異にしている。竜淵洞例に共通するものは、鉄斧と同じく貔子窩高句
C遺跡出土の有孔

鉄板と分類されているもの、蓮花堡遺跡出土の鉄鍬などである。これも鋳造品の特徴を示している。
鉄鋤は長さ18.4cm、刃部幅11.2cmの縦長梯形をなす。中央基部寄りに円孔があり、これは柄を固
定する目釘孔であろう。これも刃部を除く三辺の端部が隆起しており、鋳造品としての特徴を示し
ている。縦長梯形をなした特色ある形態の鋳型は、河南省から戦国晩期の陶
笵が出土しており、
中原から華北にかけて広く分布する農具である。しかし、身の中央部やや基部寄りに目釘
孔を持つものは、遼寧省では敖漢旗老虎山遺跡からの9例、蓮花堡遺跡から2例、遼陽市三道濠
遺跡六号住居址(前漢時代)から1例、遼城県黒城古城址(王莽時代)から2例出土している。

戦国から漢代にかけて、遼寧一帯で広く使用された農具の一つである。

鉄鎌は長さ20.4cm,柄の装着部の幅3.7cm,背部の厚さ0.5cmで刃部はやや内彎気味である。

柄の装着部には円孔が穿たれており、これも柄を固定する目釘孔であろう。背部寄りに一条の溝
があり、端部が隆起しており明らかに鋳造品である。背部と基部に隆起帯を巡らすものは、中国で
は戦国から前漢にかけての鋳造品に共通する。基部に目釘孔を持つ例は、三道濠遺跡にある。

石庖丁形鉄器は長さ13.4cm,4.7cmで、背部に二孔あり、半月形の石包丁に通じる形態をなす。

背部の端が隆起しており、これも鋳造品と見られる。背部に二孔を持つのは石包丁に共通した特
徴で、石製のものから直接鉄製のものに材質が転換した事を推測させる。他の地域では梯形のも
のがあるが、半月形の鉄庖丁は遼寧一帯に広く分布する収穫具のようである。

以上の様に竜淵洞出土の鉄器類は、いずれも中国との直接的な関連を示す遺物であり、その内
特に有孔の鉄鋤、半月形の鉄庖丁は遼寧を中心とした地域に集中しており、燕の領域の遺物とし
ても、特にその東北部の地域的特色の強い鉄器類である。

豆満江中流右岸の平野部にある咸鏡北道会寧郡五洞遺跡は、六軒の住居址・三軒の不完全な
住居址の合計九軒の住居址遺跡で、その六号住居址から鉄斧 2個体が出土し、さらに炉址の底
には鉄滓のようなものが出土したと言う。鉄斧はいずれも鋳造品である。西谷 正氏は出土土器に
より、無文土器時代と見ている。この六号住居址から「灰色陶器土器」が出土している様で、これか
らすると無文土器の時代に、中国系の灰色陶器土器や鋳造の鉄斧類がここに持ち込まれたと言う
事になろう。この状況は先の竜淵洞例などとはかなり様相が異なり、連続的・定着的な生活を営ん

でいる集団の中に、新しい用具類が導入されたことを示している。鉄斧は遼寧地域の類例からする
と、戦国晩期以上には遡りえない。

前記の咸鏡北道会寧郡五洞遺跡の所在する豆満江を直線距離で約50km遡った地域にある咸鏡
北道茂山郡茂山虎谷遺跡
は、直方形の竪穴住居址 51,石棺墓 2からなり、遺構・遺物は第一期
から第六期に分類されている。鉄器類はその第五・第六期の住居址から出土している。

潮見 浩氏によると、鉄器から見る限り第五・第六期の時代差はなく、遼寧地域の鉄器類に対比す
ると、戦国晩期から前漢頃とされる。鉄器類は第五期から10点、第六期からは24点出土している。

第五期の住居址2ケ所から多数の鉄滓が出土している。茂山虎谷の鉄器類は集落から出土した
鉄器として注目される。特に第六期の第十七号住居址の鉄器類は、斧 5,手斧 1,石包丁 1,釣針

4,鉄片 6が出土し、工具・農具・漁具の一括遺物として取り扱える。

10

咸鏡南道永興郡所羅里土城内遺跡からは、青銅製品と共に鉄斧 1,鉄短剣 1, 銜 2,鉄製筒形
器 1,鉄斧 7,鉄鋤片 1が出土している。武器類・農工具類・馬具類など多様なものからなり、その

構成は土壙墓出土のものと共通する。鉄剣は茎の短い形式で、朝鮮の細形銅剣の茎に共通する。
鉄斧には刃部幅の狭いものと広いものとの二種類あり、前者の中で断面長方形の袋部をなす鉄斧
は、遼寧地域に多くの類例があるが、幅の狭い断面梯形の袋部をなす鉄斧は、朝鮮独自の形態
かも知れぬ。

平安北道寧辺郡梧里面細竹里遺跡は清川江中流にあり、多数の住居址が検出され第一文化層
(櫛目文土器)、第二文化層(無文土器)、第三文化層(縄蓆文土器)の三つの文化層からなる。

鉄器類を出土するのは第三文化層からで、ここでは縄蓆文土器・褐色無文土器・黒褐色磨研土器
が共伴し、西谷 正氏はこれらを第X類住居址・細竹里V型式土器とする。鉄器は矛・戈・刀・鏃・
刀子・斧・鑿・錐・鍬・鎌・釣針などを出土している。鉄戈は他に類例のない特色あるもので、これは
銅戈に共通し朝鮮独自のものと言える。遺跡から明刀銭・布銭が出土し、この明刀銭は折背のもの
を含むところから、第三文化層は戦国晩期に相当する紀元前3世紀以上には遡りえない。

出土鉄器の様相は咸鏡北道茂山郡茂山虎谷遺跡に共通する。

朝鮮には青銅器類を伴出する墳墓があり、これらは鉄器の出現する時期より古い時期に位置付け
られる。多鈕細文鏡と細形銅剣とが共伴する時期は紀元前2世紀頃と考えられるが、鉄器を伴出
するものがある。

黄海北道鳳山郡松山里ソルメコル配石墓では、多鈕細文鏡 1,細形銅剣 1,銅手斧 1,銅鑿 1,
銅鉇 1,銅鍬先 1と共に鉄斧 1が出土している。銅鍬先とされるものは形態上、斧と見られる。
ここでは青銅製武器の他は全て工具類で、青銅製品から鉄製品に移行するのは、斧から始まると
思われる。

咸鏡南道咸興市会上区域梨花洞土壙墓では、土器破片 2, 多鈕細文鏡 1,細形銅剣 2,
細形銅矛 2, 細形銅戈 1,剣把頭飾 1と共に鉄斧 1が出土している。この斧は鋳造品であり、
その形態から遼寧・老虎山遺跡出土品をはじめとする遼寧に同類の多い鉄斧と言える。ここでは
青銅製の武器類を中心とする中に鋳造斧が見られる。

慶尚北道月城郡外東面入室里遺跡から、多鈕細文鏡 1,細形銅剣 6,銅剣把 1,中細形銅矛 2,
中細形銅戈,小銅鐸 3,馬鐸 5,銅環 1,飾金具 1,柄付銅鈴 1,鈴付錨形金具 1,異型有鍔鈴 1,
飾釦 1,土器と共に鉄剣 1,鉄斧 1が出土した。鉄斧は中国の片斧の形態とはやや相違しており、
朝鮮で製作された特殊な斧の様である。時期はやや降る。             

慶州市朝陽洞土壙墓では、多鈕細文鏡 1,銅剣 1, 馬鐸 2,黒陶長頸壷 4,漆器片と共に鉄剣
が出土している。

黄海道白川石山里土壙墓では、細形銅剣 1,銅剣 1, 把頭飾 1, 細形銅戈 1と共に鉄斧1
出土している。この鉄斧の形態と大きさは咸鏡南道永興郡所羅里土城内遺跡の断面長方形を呈
する鉄斧に共通し、同類のものは遼寧地域に広く分布している。鉄斧としては古いタイプで、多鈕
細文鏡に伴う鉄斧に共通している。

11

以上の様に、朝鮮で独自に展開した青銅器文化のなかにも、少量の鉄器が伴出する。鉄器の数
も多くなく、現在のところ鋳造の鉄斧を中心とする。これらの鉄斧のうち、咸鏡南道咸興市会上区域

梨花洞遺跡や黄海南道白川郡石山里遺跡の例は遼寧地方に類例が多くあり、この地方から齎さ
れた可能性が強い。黄海北道鳳山郡松山里ソルメコル配石墓や慶尚北道月城郡外東面入室里
遺跡例は、朝鮮独自の形態のようであり朝鮮における鉄斧製作の開始を示している。鉄器文化の
開始は工具のうち、特に斧から始まったと言えよう。朝鮮半島の鉄器の生産は、鉄滓の出土(咸鏡
北道茂山郡茂山虎谷遺跡)、鋳型の出土(平安南道甑山郡並びに大同郡斧山面)並びに朝鮮
独自の形態を示す鉄器類の出土から見ると、紀元前3世紀から前2世紀の中国鉄器類の流入時期
に近接して開始されたとみる事が出来る。

前漢第七代皇帝・武帝は、紀元前108年衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡ほか三郡を置き半島の大半
を支配する。朝鮮の鉄文化はこの時点から直接中国の高度な鉄文化に接し、以後急速に発展し
本格的な鉄器時代を迎えたが、武帝はそれより前、元封元年(紀元前110年)に全国46ケ所に鉄
官を設置し、鉄の専売制を施行して国家の管理化に置き、かつ「馬・弩・関」と同様に、武器・鉄を
門外不出としており、漢の高度な製鉄技術は武帝の後の昭帝まで輸出されなかったと思われる。
従って楽浪郡を通して導入された技術は、あくまで鍛冶技術だけで製鉄は含まれていなかったと
思われる。楽浪漢墓出土の鉄製武器類はいずれも鍛造品であり、楽浪の鉄器類が朝鮮独自の
文化に影響を与えたのは鍛造製の鉄器類の普及と言う面であろう。朝鮮西北部の慈江道時中郡
魯南里南坡洞遺跡
での製鉄遺構では、鋳造製の鉄斧と鍛造製の鉄斧が出土し、鋳造製から鍛造
製に推移する過渡的な様相を示している。この鍛造製の鉄斧は鋳造製に比べ不純物の少ない精良
な製品であり、銑鉄を脱炭した高炭鋼であれば、中国の状況から紀元前1世紀以降と見られる。

朝鮮における土壙墓群には、前述した土壙墓や楽浪漢墓の他に、楽浪郡設置以後鉄器類が朝鮮
独自の青銅器と共伴する第一群のものから、青銅製武器類が鉄製武器類に転換する第二群と言う
推移を経て、鉄器のみに完全に交替した第三群がある。また鉄製品を全く欠く第四群もある。第一
群の時期は概ね前漢鏡や五銖銭の伴出より、前漢末に相当する紀元前1世紀頃であり、第二群の
時期は後漢の方格規矩鏡の伴出より、紀元1世紀以降と見られ、第三群の時期は第二群の時期
より多少降る時期と考えられる。遺跡としては慶尚南道良洞里がある。

 

本邦に初めて流入した鍛造製あるいは鋳造製の鉄器の発祥地は中国であると考えられるが、その
中国での鉄器出現時期は、現在の考古資料で見る限り、西周晩期の「人工鉄」の1例があるが、出
土例が増えるのは、鍛造鉄器・鋳造鉄器とも春秋晩期から戦国早期(紀元前400年前後)であり、
使用に耐える鍛造鉄器(鋼による)はそれより時代が降る。

朝鮮半島において、初めて鉄器類が出現するのは鴨緑江以南の地で、戦国晩期(紀元前3世紀)、
燕の東方勢力圏のはずれ朝鮮半島の西北部に見出せる。その鉄器類の特徴は、明らかに燕の
鉄器文化であり、燕の領域から拡がるものが朝鮮半島に定着し、以後鋳造鉄斧を象徴とする独自
の鉄文化を形成するに至った。鉄器を初めて本邦に齎したのは朝鮮半島からと思われる。

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第四章 日本の鉄器出現時期と弥生文化 

 わが国で最古とされる出土鉄器は、福岡県糸島郡二丈町「曲り田遺跡」の十六号住居址床面か
ら出土した、幅4cm,厚さ4mmほどの鉄鉱石を原料とした鍛鉄製(鋳造製?)の板状鉄斧の頭部一点で、同時
期と思われる北九州市「長行遺跡」出土の刃部を欠失した撥形の鋳鉄製鉄斧一点、少し時代が
降る熊本県「斎藤山遺跡」出土の鋳造製(鍛造製との説もある)袋状鉄斧一点がある。

 

前章で述べたように、わが国への鉄文化の流入は朝鮮半島からと思われるが、それではその半島
での何時頃の時期の鉄が、どうやって来たのか?残念な事に未だ明らかでは無い様だ。

そうであるとすれば、半島に燕から波及した以後である事は確かであり、どんなに遡っても紀元前3
世紀以降の事である筈だ。

前述の森 浩一氏は、弥生時代前期初頭に影響を与える事が可能な朝鮮半島鉄器文化を、北部
朝鮮に鋳造鉄斧が定着する、氏の言う「第二段階」の代表的遺跡である紀元前3世紀頃の慈江道
渭原郡崇正面竜淵洞遺跡や咸鏡南道永興郡所羅里土城内遺跡の時期のものと考えており、一方
潮見 浩氏は、弥生初期の熊本県「斎藤山遺跡」出土の鋳造製袋状鉄斧は氏の言う「第2の様相」、
咸鏡北道会寧郡五洞遺跡を代表とする時期の系譜と推定し、遡っても中国の戦国晩期に相当
する紀元前3世紀から前2世紀と考えている様である。

それでは最古の鉄器を出土した「曲り田遺跡」の時期をどう考えたらいいのだろうか。

それには弥生文化の定義から始めなくてはならない。弥生文化の定義については諸説がある。

森貞次郎氏は、「日本農耕文化の起源に関する研究」と題して行なわれた、島原半島、唐津等の
総括で、弥生文化の内容は米・紡錘車・織布・定型化された土器・大陸系磨製石器を含む農耕
具・金属器・支石墓等に求められ、これらの要素が積み重ねられていき緊密に組み合わされて完
全な形を備えた時が弥生文化の成立であるとし板付T式土器をもって弥生時代の始まりとされた。

佐原 真氏は、弥生時代とは日本で食料生産を基礎とする生活が開始された時代とし、弥生時代
の土器を弥生土器とする。従って板付遺跡下層、菜畑遺跡、曲り田遺跡出土の土器等を弥生
時代早期あるいは先T期とした。

金関 恕氏は、弥生文化を規定する最も重要な構成要素は水稲耕作であるとし、「弥生文化とは
縄文後・晩期以来の原始的・萌芽的農耕の発展を土台とし、縄文後・晩期以後徐々に朝鮮半島
からの先進的文化の流入があり、それを在来的要素と融合させながら作り上げた日本独自の文化
であり、主体は内部条件の発展であり、外的要因は従である」と述べている。

橋口達也氏は、弥生文化は大陸・朝鮮半島からの影響、すなわち外的要因と縄文文化の中から
の内部的発展と言う二つの要因が緊密に絡み合って成立したものであり、弥生文化の規定的構成
要素である水稲耕作をはじめ農耕具・支石墓等大陸・朝鮮半島にその源流を求めるものが多い
外的要因も認めるが、もう一つの要因である内部的条件の醸成と言う問題にも目を向けるべきで
あると考えている。

「曲り田遺跡」が考古学上重要な遺跡である理由は、最古の鉄器を出土した遺跡だから、と言うだ

13

けでなく縄文晩期稲作農耕出現期の集落と墳墓の遺跡であったことにもある。

稲作文化の起源や開発期についての最大の決め手は、何と言っても最古の水田遺構の発見で
あるが、それも研究者による長い時間をかけた末の土器編年によって確認されることになる。

明治十七年(1884年)に東京・本郷弥生町で発見された土器(のち弥生式土器と呼ばれる)も、最
初は貝塚土器(のち縄文式土器と呼ばれる)同様の“石器時代”の土器として紹介されたが、明治
二十九年(1896年)蒔田槍次郎氏の「弥生式土器発見について」と言う小論文で、貝塚土器との
相違を指摘した事によって、各地で弥生式土器に注意が払われるようになり、名称や時代をめぐる
論議が行なわれた。大正六年(1917年)浜田耕作氏が、大阪府国府遺跡の発掘で、遺跡と遺物
を層位関係でおさえると言う、日本で最初の科学的調査方法を実施した事によって、土器の編年
が行なわれる様になった。昭和六年(1931年)弥生式土器の編年に曙光の見えるきっかけが訪れ
た。それは名和羊一郎氏による福岡県立屋敷遺跡での遠賀川式土器の発見であり、文様の有無
を時間差で捉えたことは、後の弥生式土器の研究の発展に道を開いた。この時期から森本六爾氏
山内清男氏は、土器様式の設定と編年や、弥生文化を稲作農耕社会として位置付けるための活
動と確立に力を尽くした。森本氏は九州北部の須玖遺跡の層位の上下関係から、九州北部の弥
生式土器を(一)遠賀川式、(二)須玖式、(三)東郷式と編年した。戦前の調査の中で弥生式土器
の編年と稲作文化の上で大きな成果をあげたのは、昭和十二年(1937年)の末永雅雄・小林行
雄・藤岡謙二郎各氏
らによる、奈良県唐古遺跡の発掘であった。終戦直後、森貞次郎氏は遠賀川
の最も古いものを飯塚市東菰田(こもだ)遺跡出土の土器と推定し、これを東菰田式(のちの板付T式)これ
に続くものを下伊田式、立屋敷式(のちの板付U式)に分類した。森氏による東菰田式(板付T式)
の確認はその後の夜臼式土器の位置を突き止めていく過程での重要な出発点となった。

又この頃岡崎 敬氏は中間市底井野の遠賀川河床で発見された刻目突帯をもつ甕形土器を、唐
古遺跡の発掘成果から縄文式土器の最も新しい土器と推定していた。以後森・岡崎氏らは、縄文
系土器と弥生系最古の土器の接点を一つの遺跡の層位で捉える方向に向かった。昭和二十四年
(1949年)福岡県糟屋郡新宮町三代にある立花貝塚での発掘により、弥生中期と前期の土器を
初めて上下の層位関係で確認した。その後立花貝塚に近接する夜臼遺跡の小貝塚の調査がおこ
なわれ、弥生式土器の最古の東菰田式(板付T式)土器と共に、縄文系の条痕のある土器が発見
された。この遺跡の名をとって命名されたのが夜臼式土器である。その頃中原志外顕氏が、福岡
市板付遺跡で同じ様な二種の土器片を採集し、岡崎氏と試掘を行なった。又佐賀県唐津市の柏
崎貝塚から竜渓顕亮氏が採集した土器片にも同じ二種の土器がある事が分かった。昭和二十六
年(1951年)夜臼遺跡、板付遺跡、柏崎貝塚それに福岡県遠賀町の城の越貝塚の調査が実施さ
れた。板付遺跡から、ついに弥生式土器の最古型式(板付T式)と縄文晩期の刻目突帯文を持つ
土器(夜臼式)の共伴が確認された。また炭化籾、籾圧痕のある土器、深鉢形の甑などが、板付T
式、夜臼式に共通して見出された。継続的な調査は稲作農耕の開始期とその系譜、九州北部の
土器編年、農耕集落の実態究明などに多大の成果をあげたが、まだ板付T式土器と夜臼式土器
との共伴と言う事実を知る段階であった。板付遺跡の発掘によって、縄文系文化の中の稲作農耕

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の姿に直面し、新しい課題として夜臼式土器だけを出す、単純層の中にも弥生文化を見出す要素
があるかどうかを検討する方向が示された。一方長崎県島原半島では、昭和三十年代に入って、
雲仙岳南側中腹にある原山支石墓群に夜臼式土器が伴うと言う情報があり、昭和三十二年(195
7年)石丸太郎・森氏らによる一部の試掘が行なわれ、D地点一号支石墓の石囲みの中に丹塗磨
研の大型壷と、刻目突帯文のある二個分の甕を組み合わせた甕棺が検出され、その甕の肩下部
に籾圧痕が認められた。昭和の初めから島原市内三会の景華園支石墓が知られていた他、島原
在住の古田正隆氏によって、深江町の山ノ寺遺跡・島原市の礫石原遺跡など縄文晩期の遺物収
集の努力が続けられていた。昭和三十五年(1960年)原山D地点、山ノ寺、礫石原、小浜の諸遺
跡が発掘された。昭和三十二年から調査が行なわれた長崎県南高来郡国見町神代の筏遺跡で
は、縄文晩期中頃の遺構から、打製の土掘用具や、籾圧痕を持つ土器と共に鉄鏃一点が出土し
たが、研究者の注目するところとはならなかった。これらの調査により島原半島では、縄文晩期す
でに弥生文化の重要な要素となる、コメ(籾圧痕土器)や支石墓の出現が確かめられる一方、縄文
文化の伝統をひく“打製扁平石斧”や屈葬のあり方など、縄文晩期社会の複雑な対応にも手掛かり
を提供した。昭和四十年(1965年)には、唐津市宇木汲田貝塚の調査が始まった。遺跡の層位は、
上層の弥生中期、その下の板付U式、その下に板付U・T式・夜臼式の混在、その下に板付T式
と夜臼式、さらにその下に夜臼式の単純層があった。貝塚南端部の黒色土層から夜臼式土器と抉
入石斧、貝塚東端部の最下層で、猪の頭骨と一緒に炭化籾が発見され、また夜臼式土器に籾圧
痕のあるものが二点認められた。この調査では島原で見られた縄文晩期の打製扁平石斧が姿を
消している事が注目された。宇木汲田貝塚の調査によって、低地の水辺に立地する稲作農耕の適
地で夜臼式単純層を確認し、炭化籾と大陸系磨製石器が出土するなど、玄界灘沿岸地域での縄
文農耕の実態に近づく大きな成果をあげた。板付遺跡の調査はその後も続けられており、ついに
昭和五十三年(1978年)板付台地の西側調査区域で、弥生時代と縄文時代の水田面が発見され
た。水田面には共に多数の足跡が残されており、縄文時代のものは夜臼式単純層での確認であっ
た。水田の構造は、既に弥生前期の遺構で指摘されてきた様に、用水路の取水・排水の技術など、
いずれも縄文晩期の稲作開始の段階から高度な水準にあることが明らかになった。

この用水路から半製品の諸手鍬 2,柄 2,手斧柄などが纏まって出土しているが、これらは既に知
られている奈良県唐古遺跡の弥生前期のものと、まったく同じであった。この縄文・弥生の水田を
調査した山崎純男氏は、昭和五十五年(1980年)「弥生文化成立期における土器の編年的研究-
板付遺跡を中心としてみた福岡・相良平野の場合」において、夜臼式から板付T式の土器編年を
進めた。山崎氏は、板付遺跡での層位からの確認と土器の形態・器種の比率などの検討から、共
伴する夜臼U式土器と板付T式土器とは系統が異なり、板付T式土器は夜臼U式の段階に「再
度の外来文化の影響により」出現したと指摘した。未だ解明されていない稲作農耕を開始した人々
の住居址は?、集落の構成は?、墓制は?、他地域への拡がりは?、そして縄文晩期社会が、こ
の新来の稲作農耕にどう対応していったか?・・と言う課題に関わる重要な発掘が二ヶ所で併行し
て始まった。一つは佐賀県唐津市の「菜畑遺跡」、もう一つは、福岡県糸島郡二丈町「曲り田遺跡」

15

である。菜畑遺跡では十六枚の堆積層が検出され、縄文晩期から弥生中期まで五時期の時代を
追って拡げて行ったと見られる水田遺構が発見された。遺跡の層位は、中島直幸氏によると下層
の古い順から縄文時代前期(十六層〜十四層、轟式・曽畑式)/縄文時代中期〜縄文時代晩期中
頃(十三層、阿高式・黒川式)/縄文時代晩期後半(十二層〜九層、山ノ寺式)/縄文時代晩期終
末(八層下、夜臼式)/弥生時代前期初頭(八層上、板付T式・夜臼式)/弥生時代前期後半(七層
下、板付U式)/弥生時代中期(七層上、城の越式・須玖式)と整然と重なり、弥生中期・同前期後
半・同前期初頭・縄文晩期終末・同晩期後半の各層に水田遺構が認められた。水田遺構の北側
丘陵裾部に数戸の住居址と墓地があり、前期初頭頃の壷棺墓・土壙墓が検出されている。菜畑遺
跡の遺物で特に注目されるのは、稲作農耕出現期の木製農耕具がかなり出土した事である。この
時期、既に各種の木製農耕具が出揃っている事が注目された。しかしこの遺跡の調査では、縄文
晩期後半〜終末の稲作農耕出現期の集落と墳墓が未検出であったが、同じ頃発掘が進んでいた
曲り田遺跡で、ついに解明されたのである。曲り田遺跡では、遺構は石崎丘陵西側の斜面に夜臼
期の住居址 30,支石墓 1,弥生前期の甕棺墓 11,弥生中期の住居址 2,弥生後期の住居址 9
があった。夜臼期の土器は、調査者の橋口達也氏が曲り田式の新・古二形式に分類した、壷・椀・
高坏・浅鉢・深鉢・甕などの器種があり、このうち壷と高坏が曲り田(古)式に出現している。曲り田
(古)式は菜畑遺跡十三層から出土した土器に、曲り田(新)式は菜畑遺跡十二層〜九層出土の
土器及び、板付遺跡の山崎純男編年の夜臼T式にあたることを明示した。また、この新しい器種
の壷形土器や椀の中には、朝鮮無文土器系に属する丹塗り磨研のものや、その手法が用いられ
たものが混在している。縄文晩期前半までの粗製の浅鉢・精製の椀・粗製の甕という稲作農耕の生
活が生み出した土器の組み合わせが成立する。そして、この遺跡の住居址から板状鉄斧が出土し
た。金属器の所謂縄文時代の出土例は皆無であったので、この曲り田遺跡の板状鉄斧が日本金
属器遺物の最古とされる。鉄器が稲作農耕の開始当初から、多くの縄文系石器・大陸系磨製石器
と併用されている事が確実に立証された。

この鉄器出現時期には水田稲作農耕が開始されており、前述した弥生文化の定義の中での各氏
共通の認識である稲作農耕その他の条件に合致し、時は正に弥生時代に入っていると言える。

 

第五章 鉄から見た弥生時代開始500年年代かさ上げ問題

 「曲り田遺跡」は前章でみた通り、既に弥生文化期であり弥生時代と言ってよい。

それではこの遺跡の歴年代は、いつ頃であろうか。

東アジアにおける初期鉄器文化の推移については、中国中原に始まり戦国時代の燕、そして朝鮮
半島を経てわが国に伝えられたと論じてきた。

その考え方であれば、森 浩一氏・潮見 浩氏の考察の如く、中国戦国時代晩期の紀元前3世紀
頃と言うことになる。しかし「曲り田遺跡」を発掘した橋口達也氏も推移は同じくとしながらも、その書
「弥生文化論」の“稲作の開始と発展”のまとめの中で、菜畑・曲り田等の弥生文化開始期の年代を
紀元前400年前後と位置づけている。にも関わらず「曲り田・斎藤山の鉄」の時期については、共

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に鍛造品(斎藤山出土品を鍛造と見ている)であることから、紀元前4世紀〜紀元前3世紀前半の
もので、中国の戦国時代に相当するとも述べ、自説の中で100年近い違いを見せている。

橋口達也氏は、開始時期の年代の根拠を朝鮮半島での考古資料をもとに次の様に論じている。

弥生時代成立期の年代と、韓国における遺物の組み合わせによる年代論として、北部九州の弥生
時代に盛行した甕棺の編年を行い、前漢鏡、後漢鏡等の副葬品等との関係から、弥生時代の年
代を推定している。前期末は紀元前180年〜170年頃と考えており、板付T(古)式は紀元前4世
紀後葉から紀元前300年前後頃、菜畑・曲り田等の弥生文化開始期の年代を紀元前400年前後
に位置づけられると考えている。

韓国では、

@ 遼寧式銅剣・磨製石剣・有茎の柳葉形磨製石鏃等に加えて、丹塗り磨研壷がセットとなる、
松菊里、鎮東里等

A 細形銅剣・多鈕粗文鏡の他に防牌形銅器、剣把形銅器等、無茎式の磨製石鏃に円形粘土
帯土器、黒色磨研の長頸壷がセットになる、大田槐亭洞、牙山南城里、禮山東西里、枎餘
蓮花里、清州飛下里、沿海州イズヴェストフ丘等

B 細形銅剣・銅矛・銅戈・多鈕粗文鏡・多鈕細文鏡等の他銅鑿・銅鉇に加えて黒色磨研長頸
壷のやや退行型式のものがセットになった枎餘九鳳里等

C 細形銅剣・多鈕細文鏡・銅鉇・銅斧・鉄斧等がセットになる、黄海北道鳳山郡松山里・和順
大谷里等

北部九州弥生文化開始期前後から中期前半頃に対応する副葬遺物の組み合わせを大まかに

把握出来る。弥生前期末頃北部九州の甕棺の副葬遺物として細形銅剣・銅矛・銅戈・多鈕細文鏡

等が出土する。これらはCの鳳山郡松山里・和順大谷里等と基本的には同様の組み合わせであり

、これらを北部九州の前期末〜中期前半頃に対応させてよい。円形粘土帯土器は曲り田で板付

(新)T式に伴うと考えられるものが出土しており、日本側ではこれが上限で多くは前期末〜中期

初頭に集中している。また無茎式の磨製石鏃は金隈遺跡、中・寺尾遺跡等で前期後半の甕棺から

出土している。従ってAの大田槐亭洞等は板付(新)T式〜板付U式に対応するものと考える。

@は福岡県津屋崎町今川遺跡で遼寧式銅剣を再利用した鑿、銅鏃等が出土していることから板

付(古)T式以前に対応するものと考えられる。以上のことから、@は紀元前300年頃以前、Aは

紀元前3世紀前半頃、Bは紀元前3世紀後半頃、Cは紀元前2世紀初頭〜中頃に北部九州との

対比から下限を置く事が出来る。従ってこれよりやや遡る年代が実際に近いものであろう,と述べて

いる。

武末純一氏は「弥生時代の考古学」の中で、板付T式の年代は朝鮮半島南部の無文土器時代中

期の松菊里式土器の年代と関連してくる。福岡県津屋崎町の今川遺跡で出土した銅鏃は、松菊

里出土の銅剣の先と合わせると、ほとんど一致するので、おそらく遼寧式銅剣の先を加工したもの

で、そうなるとこれは朝鮮半島の細形銅剣より古くなる。朝鮮半島の細形銅剣は紀元前3世紀には

出現していただろうと言われているので、板付T式の上限は紀元前400年あたりまでいくのではな

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いか。朝鮮半島の遼寧式銅剣の年代観が紀元前4,5世紀位までいくと考えている、と述べてい
る。

弥生文化開始期=「曲り田遺跡・鉄器初出土」時期=弥生時代開始期となれば、これら諸氏の説
でも既に150年〜200年の時間差があることになる。が、しかし最も古くしても紀元前5世紀と言うこ
とであり、これは冒頭“はじめに”の問題提議である、弥生時代開始年代が紀元前10世紀の説との
差は、実にさらに500年近くある。

結論から言えば、“鉄器の面”からの考察と言うことになると、これまで論じてきた「東アジアの鉄器

文化」のなかでは考えられない事は明白である。またわが国には青銅器時代は無いとされてきたが

、それだけの時間があれば、当然半島からの青銅器文化の流入(例えば遼寧式銅剣等)の痕跡が

あってもよいと考える。

従って、「加速器質量分析計を使った14C年代測定法」についての、さらなる検証を求める。

実例を増やすと共に、年代が確かな資料についての整合性が有るか否か、その納得が必要だ。

が一方、もしこの方法の正確さが認められるものであればどうだろう。

“鉄器の面”から考えれば、「鉄器を出土した各遺跡」での出土状況がまず正確であったか否かが

問われるだろう。さらに例えば、筏遺跡の様なケ−スの再検証も必要となる。

また、弥生文化の定義そのものの見直しも必要とされるだろう。

縄文時代後期とされる時期に、弥生的文化が見出されるか否かの検証が可能か。

さらに、わが国だけでなく、東アジア全体の歴史観にも関連し、各国の考古学の其々の再検証も

必要となる。大問題提議である。

それらのことを考えると、この発表はもっと慎重であるべきであったと考える。

今回はここで筆をおくが、今後多角的な見直しをすることにもチャレンジしてみたい。

山ノ寺式・黒川式・古閑式・広田式等の土器の時期の実態についてもさらなる研究が必要であるし

、朝鮮半島における稲作農耕開始が何時まで遡るのかも、この問題に関連して興味あるところで

ある。

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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出典・参考文献

古瀬清秀            講義ノ−ト・プリント                           2003

潮見 浩             東アジアの初期鉄器文化         吉川弘文館       1982

西谷 正・編集代表     韓半島考古学論叢             すずさわ書店      2002

九大韓国研究センタ−他  シンポジウム/韓国考古学の新世紀                  2002

田中 琢・佐原 真      日本考古学辞典              三省堂          2002

佐原 真            古代を考える/稲・金属・戦争        吉川弘文館       2002

大槻健 他訳         韓国の歴史–国定韓国高校歴史教科書 明石書店        2000 

橋口達也            弥生文化論                  雄山閣          1999

大貫静夫            東北アジアの考古学              同成社          1998

村上恭通            倭人と鉄の考古学               青木書店        1998

大塚初重・石野博信 他  弥生時代の考古学              学生社          1998

大阪府立弥生博物館編  弥生文化の成立               角川選書       1995

奥野正男            鉄の古代史1 弥生時代          白水社        1991

森 浩一             日本古代文化の探求 鉄                       1974

中国科学院考古研究所   新中国の考古収穫             美術出版社      1963

小竹文夫・小竹武雄     『史記』 世界文学大系           筑摩書房       1962

 

 

 

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