平成14年度 前期 「日本考古学研究 T」レポ−ト                                

中国青銅鏡変遷の概要   

            〜デザインの変遷と鏡の持つ意味について〜       2002/08/20 

                                                          CB−140003     倉本 卿介

 

1,はじめに 

 青銅鏡の持つ意味には、「日用品・実用品としてのカガミ」、「呪術や祭祀に用いる道具としての鏡」、
邪の効用があると信じる鏡」、「権力や権威・身分等を誇示する威信財としての鏡」、「現世・来世
のご利益を願うお守り的な鏡」等が考えられますが、中国では実用品、即ち姿見としてのカガミとし
て理解されてきました。がしかし、その出現期から墓に副葬される明器として扱われております。

漢代における満城漢墓や焼溝漢墓・広州漢墓等では、棺内外を問わず漆塗りの化粧箱(奩)やフタ付
容器
盒)の内に、或いは絹や布に包れて副葬されており、馬王堆漢墓では一面の鏡が、刺繍を施し
た平織りの袱紗に包まれた上に漆塗りの五つの子持ちの化粧箱の中に納められ、鈕には二本のエンジ
色の絹の下げ紐を結んでいた状態で出土しているところを見ると、実用品としてのカガミ、との見方
は間違っていないとは思いますが、支配階級の男・女区別無く副葬され、一人一面(このケ−スが最
多)だけでなく二面、三面の場合もあるし、一面の鏡を2つに割って二人別々の棺に納められていた
例もあり、又置かれていた位置が大多数は棺内であり、かつ頭部付近が最も多く、棺外であってもそ
う遠くない位置に置かれていたと言う事を考えると、単に日用品のカガミとしてだけと理解する事は
出来ません。中国古代青銅器の主な特徴は、道具や武器の他礼器の数が多く大きな社会的機能を果た
していた点であります。この礼器は身分や地位の上下関係を表し、社会統治のための規範を示すもの
でした。そして青銅器は神秘的な紋様をほどこされ、超自然的な神の霊感を示すシンボルでもありま
した。青銅礼器は単なる宗教法器ではなく、各種の酒器・食器・水器は宗廟において、上帝・鬼神・
祖先を祀るために奉納された祭器であると同時に、人間社会の中で王と臣下、身分の上下関係、長幼
の序列を区分する礼器でもありました。そしてこれは又日常生活で使用される実用的な器物でもあっ
た訳です。その中にあって青銅製の鏡の持つ意味は何であったのでしょうか?

 これから時代・地域を追って鏡の変遷の概要を考えていく訳ですが、その対象とするものは本来の機
能であると言われるカガミ、つまり鏡面についてではなくカガミの裏、鏡背のデザインであります。

それらを使う生活の場、即ち宮殿内や住居址から出土するわけでもなく、あくまで墓の副葬品として出土して
おります。時と共にデザインが変わり又手にする人達の階層も変わる。それはどの様な意味
を持っているのか?カガミとしての性能、即ち姿見として使いやすい形・大きさ・写りの良さ等を追
求する姿勢は時代が変わっても見出せません。従って実用品としてのカガミの用途以外にも重要な意
味合いが鏡面や、その鏡背のデザインの内にあるに違いないと考えます。

青銅器のデザインが鏡のデザインへ与える影響を検証し、その時代の社会の流れを考慮に入れつつ、
鏡の持つ意味、デザインの意味について、鏡の変遷と共に考えて見たいと思います。

 

2,商代以前−夏時代−

中国が青銅器時代に入ったのは、紀元前2000年頃と言われています。

青銅器時代は紀元前20世紀から紀元前5世紀に至る1500年余りの歴史を持ち、その後数百年間
は青銅器時代と鉄器時代が交錯し合う時代でありました。

黄河中流域に位置する河南省師市郊外の二里頭遺跡は、その時代の遺跡の一つであり、 夏の都で
あったとも考えられています。夏はBC2100〜BC1600年頃の時期に存在していた中国最初
の王朝であり、二里頭はその全期間にわたって中心的存在であったと思われ、その晩期は商時代早期
まで続いていたと考えられます。出土遺物の分類により第一期から第五期まで分けられており、最古
の青銅器は第二期の遺構から出土した原始的器形をした青銅爵で、同時に出土した陶爵に似ているこ
とから、陶製鋳型を用いる青銅器製造は紀元前19世紀以前から既に存在していたのでしょうか。

鋳銅遺構は二里頭文化第二期には存在します。甘粛省東郷林家遺跡から、5000年前後以前の笵鋳

銅刀が出土していますから、二里頭に至るまでには相当長い発展過程があったものと思います。

二里頭文化は青銅器文化の萌芽期とも呼ばれる時期で、陶製鋳型による鋳造技術もますます成熟し器
壁も比較的薄く、均一になっていきますがまだ粗雑さがあります。器形はある種の陶器の形状を模倣
したあとが見られ、文様も普通は簡単な連珠文と円餅形状でまだ動物紋は見られません。

しかし、青銅鏡に関して言えば現在最も古いものは、1976年に発掘された約4000年前(即ち

青銅器時代初め頃)の青海省貴南馬台斉家文化25号墓出土の幾何学紋鏡「七角星紋鏡」で、直径
8,9p、厚さ0,3p重さ109g円形で、鏡背には残存した跡とその外に飾りの凸弦紋が一周し、縁辺
の凸弦紋と縁との間に二つの小孔があり、この孔に縄の紐を通しぶら下げていたと思われます。この
内外二つの凸弦紋の間には三角紋が不規則な七角星形の図案をなし、角と角の間には飾りの斜線紋が
鋳造されています。この鏡の他に、前年発掘されていた甘粛省広河斉家坪の同じく斉家文化墓から出
土した素鏡が一面あります。これは円形のフタを思わせる直径6
p位の鏡です。この時期二面共黄河
上流域の斉家文化圏のものです。これは鏡の発生がさらに西方にあったこととの関係でしょうか。

 

3,商・西周時代

 商・西周王朝はどちらも宗教的権威をそなえた君主を頭とし、神意によって未来を予測して政治をす
る、神権政治を推し進めていましたが、同じ神権政治でも商の呪術的信仰とこれに結びついた専制政
治から脱して、西周は理性に基づきより合理的で民主的な原理に従って諸都市国家の行政を運営して
おりました。即ち商王朝の中央行政は、王を頭として巫師・卜い師・軍人の師と呼ばれる身分、文書
記録官である
、近侍や下役である小臣等によって行われていました。母系家族の痕跡を強く残した
商代の氏族制のもとでは、社会生活は全て氏族又は氏族の集合体である部族を単位として営まれてい
ました。最も有力な部族は王室の同じ世代の王子、即ち多子族であり、代々の王を族長としてそれに
世襲された王族がこれに次、有力部族の族長や、主要成員達は貴族として族に属する軍隊を統率し、
また王朝の政治を預かる貴族達は多数の男女の奴隷を家庭内のみならず、農業と牧畜、手工業等の労
働に使役する奴隷制社会でありました。
陜西省西安付近の宗周に首都を置いた西周王朝が、商の広大
な領土、約500
q離れた殷墟を中心とした華北平原の新しい領土を統治するには、中間の河南省洛
陽に殷王朝の主力をなした部族を移住させて成周と言う副首都を建設し(BC
12世紀末)、周公自ら
ここに駐屯して東方の経営にあたると共に、王族及び親縁の部族を各地に派遣し、衛・魯・斉・晋等
諸候国をたてました。西周における封建制とは、諸侯を公・候・伯・子・男の五等の爵に応じて方百
里から五十里までの領地を与え、独立国として統治させた事を指します。

 二里頭の商前期から商後期に殷墟へ移る迄の間は青銅器文化の育成期とも呼ばれ、紀元前16世紀

から紀元前14世紀の時期で、青銅器は器壁が薄く均一で器形も独特です。獣面紋は既に礼器上に浮
き彫りで表現されるようになり、見開かれた円形の獣目はその象徴です。
獣面以外の部分は粗放な渦
巻き状曲線で構成されていますが、具体的に何かの物体の一部を表現している訳ではありません。

紋様も平彫りの陰刻表現が主体で、地紋には雷紋を一切使っておりません。場合によっては、紋様の
上下縁飾りとして連珠紋がほどこされています。

  商代後期(殷墟)から西周初期にわたる300年間の青銅器文化は急速に高潮し、黄金時代を現出
します。所謂青銅器文化の繁栄期です。器種は変化に富み、生命をむき出しにした動物と神怪をモチ
−フにした怪奇な様式が迫り、
邪の力を持つ呪術的な図紋「饕餮」の最盛期となります。饕餮
は殷中期から西周中期まで存在します。主紋様と地紋様は既に区別されはじめ、主紋様には浮き彫り
の技法が使われ、紋様の主要部分は何層もの浮き彫りで表現されます。又地紋は稠密で細緻な雷紋で
埋め尽くされて主紋様とはっきり区別されております。鏡に
饕餮紋が現れるのは時代が降り、戦国時
代になってからで、円形や方形の
饕餮紋鏡が黄河流域で出土します。地紋は雲雷紋です。

西周中期から春秋早期が青銅器文化の転変期に当たります。

西周の5代王の時代から、青銅器は各方面で急激な変化を起こしました。その主要な特徴は酒器が
減少し食器が増え、紋様の主題が変化したことであります。紋様は大きく変形すると同時に簡素化さ
れています。これは獣面紋の変化に集約されます。周人の「鬼神を敬い、これを遠ざける」と言う考
え方が確立してくると、神秘的で狂暴な獣面紋は商(殷)代の細緻かつ稠密な表現から簡略化された
平行瓦紋、重環紋、波曲紋が次第に流行し始め、ついには主導的地位を占めるに至りました。

西周晩期の青銅器の形態は器壁が厚く、重量感があり粗放であります。この時代の青銅器の価値を高
めているのは、歴史的資料として貴重な銘文が書かれていることです。

 商の時代の鏡の出土例は後期殷墟からのもので、いずれも直径6,712,5p幾何学紋鏡で、鈕の形
は弓形をしております。紀元前13世紀中葉23代武丁の妻、婦好の墓から「多圏凸弦紋鏡」が二面、
葉脈紋鏡」が二面、又安陽候家庄1005号墓から「平行線紋鏡」一面が出土しております。鏡面
は微かに凸面をしております。西周時代の出土例は、
西省宝鶏市の西周早期墓からの直径6,5p
素鏡
が一面あります。鏡面は平光です。

 しかし、青銅器のデザインに比べ青銅鏡のデザインに関しては無頓着とも思えるほど単純です。

当時青銅器は、支配者の重大関心事である祖先を祭る祖廟の祭祀に用いられ、それにより権力を民衆
に誇示すると言う意味がありましたが、鏡にはまだそういう意味がなかったのでしょう。出土数から
見て鏡そのものがその当時、まだ実用の面でも祭祀の面でも重要なものではなかったと考えられます。
の時期以降、特に戦国時代に入ってから急激に出土例が増え、デザインも豊富になります。

 

4,東周・春秋戦国時代

 西周が紀元前771年に滅び、翌紀元前770年に都を洛邑に移し、東周と称しましたが全国を制す
る力は無く、大国の諸侯が覇を競う春秋時代が始まります。春秋列国、つまり都市国家の総数は当初
200余国有ったと言われますが、その内有名なのは晋・秦・楚・斉・燕・魯・宋・衛・陳・蔡・曹・
鄭の十二国です。西周青銅器は多く王臣・貴族の所有物でありましたが、春秋に入ってから東周の王
臣・貴族は王位継承権を巡って激しく対立し、内乱まで引き起こした結果、統治秩序は大いに混乱

し、彼等は世襲の特権と地位を喪失します。従って春秋時代、東周の王臣の青銅器遺品は極めて少な
く、この時期の青銅礼器は殆ど各国諸侯と卿・大夫の所有でした。

青銅器は、なお西周後期の体系を継承し根本的な変化はありません。この事は西周晩期〜春秋早期の
遺跡、河南省三門峡上村嶺 北號国墓から出土した大量の青銅器が示しております。この1650号墓
から出土した鏡は、直径5,9pと6,4pの素鏡二面で、鈕は弓形鈕です。この二面は鏡面がくっ付い
た状態で、人骨胸部上から出土しております。同1612号墓からは、鹿・鳥・虎を単線でデザイン
した禽獣鏡が出土しております。直径6,7p、鈕は平行した二つの弓形鈕です。青銅器のデザインを
模倣した形跡はありますが、この様な軽やかな単線の禽獣紋はデザインされた最初の鏡だと思います。
初めて何かマジカルな意味を感じます。春秋晩期 長沙龍洞坡第826号墓から出土した鏡は、径8
pの鏡面平直の素鏡で鈕座の無い小さな鈕がありました。 春秋戦国を通して四川省や湖北省の楚墓
から二周〜三周の細弦紋のある弦紋素鏡が又5周弦紋素鏡が戦国晩期に少数出土しております。同じ
く二周〜三周の1,0〜1,3p幅の凹面形の帯を配列した横弦紋素鏡が、陜西省の秦墓から出土してい
ます。これらをデザインした鏡の直径は比較的大きく18,4pから22,6p、24,3pのものもあります。
鈕は三弦鈕=三稜鈕です。これらの鏡のデザインは素朴なもので、当時はカガミとしての鏡面に意味
があったのではないかとさえ思われます。紀元前七世紀半ば、東周の王権が衰え覇者の主導する時代
となりました。斉の桓公・晋の文公・宗の襄公・秦の穆公・楚の荘公の五覇の時代です。

春秋中期から戦国時代に至るまでの時期に、中国は早期鉄器時代に入ります。青銅器は生産力の増大
を計る為に新たな発展を見せ、再び繁栄期を迎えました。青銅器文化の更新期と呼ばれる時期です。

春秋後期の青銅器の文様は大きく変化します。青銅器の装飾紋の多くは主題が見られず、形態の同じ

無数の小単位を集め、組み合わせて文様にする各種の蟠龍紋・蟠螭紋の類で、所謂「戦国式」図案

を作り上げました。「戦国式」は実際には春秋晩期に始まります。この影響からか春秋末から戦国初期
に、純地紋鏡が出現します。これには羽状紋と変形羽状紋と雲雷紋があります。羽状紋は西周後期か
ら春秋早期に青銅器に出現した蟠螭紋の一部分の羽状部分と渦粒状部分を組み合わせ、長方形の花紋
単位を作り背面に割り付けたもので、雲雷紋は商代に地紋としてデザインされた雷紋の内、丸い螺旋
形(雲紋)と相対した二個の三角紋を配列したものです。戦国時代を通じてこの二つの紋が地紋とな
り、その上に各種の模様が乗っかるデザインが採用されました。鈕の形は春秋戦国時代を通じて弦鈕
で、その内三弦鈕=三稜鈕が圧倒的に多く、例外として透紋鏡の小環鈕や多鈕紋があります。

前漢前期に入っても蟠螭鏡・蟠虺鏡・花弁鏡等には弦鈕の例があります。春秋戦国時代の鏡は、縁の
多くが丸いスプ-ン状の(寛)素巻辺(匕面)をしており、かつ鏡の厚さが薄いのが特徴的です。

多鈕鏡は、春秋戦国を通じ中国東北部の遼寧省朝陽他に多く、吉林省集安からも出土しております。
地紋は斜線紋か平行線紋で、主紋は幾何学紋や三角鈎連紋・葉脈紋です。鈕は2〜3個あり、半環鈕
や橋形鈕で、直径は12〜14pが中心ですが22,5pの大型鏡もあります。この鏡式はその後、朝鮮半
島独特の凹面をした多鈕粗紋鏡から多鈕細紋鏡に受け継がれる様です。
各都市国家では旧貴族政治に
変わって、新興豪族による寡頭政治が起りました。中原の強国・晋が内部で激しい闘争を繰り返した
結果、韓・魏・趙の大夫が三晋として自立します。この大夫が諸侯と称し始めた紀元前403年をも
って戦国時代に突入します。この時期中国は秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の七大国に分割されていま
した。戦国時代の青銅器は殷や西周時代の様な宗教性は失われ、旧礼器特有の形式・体系から抜け新
しい器形の実用器が創造されました。戦国青銅器の特色は、総じて斬新、精巧と言えます。

又、金・銀・銅・玉やガラス玉を象嵌した華麗なものが作られました。

  戦国時代に現れた青銅鏡には、花葉紋鏡山地紋鏡菱紋鏡禽獣紋鏡饕餮紋鏡蟠螭紋鏡
羽鱗紋鏡連弧紋鏡彩絵紋鏡透彫鏡嵌玉石鏡狩猟紋鏡多鈕鏡等があります・

春秋五覇と戦国の七雄は互いに争い合い、政治、経済、文化の発展は極めて不安定になりました。

各地の習俗の違いや諸侯割拠の形勢のため、地域的特徴を生んでおります。楚器と三晋(韓・魏・趙)
の器は器形、文字、装飾全てに差異が生じています。この傾向は鏡にも反映されており、楚の領域
(湖南・湖北・浙江・安徽・江蘇)では花葉紋・山地紋・菱紋・螭蟠紋・禽獣紋(龍紋・連弧紋)・連弧
紋が盛行し、三晋域(陜西・山西・河南・河北)では禽獣紋(虎紋・蟠龍紋)・饕餮
紋・彩絵紋・嵌玉
石鏡等が多く見られます。

花葉紋鏡は春秋末の三葉紋鏡の初見から戦国時代を通じ、前漢早期墓からも出土しておりますが、
戦国前期から中期に盛行したものです。地紋は羽状紋・雲雷紋が多く、主紋は数の少ない三葉紋から
八葉紋までありますが、大半は四葉紋です。このデザインのモチ−フは、青銅器からは見受けられま
せん。前期の四葉紋の辺縁に内向十二連弧紋が初見されます。湖南省・安徽省から多く出土します。
直径は前期では小さく、6,8〜7,5pですが中期になると10〜13pと大きくなります。鈕は三弦鈕が
多く、四弦鈕もあります。鈕座は円鈕座・方鈕座です。

殷代末から西周始めにかけて、それ迄の雷紋が変化し鉤形線を連ねた鉤連雷紋が出現します。この一
部を特化し、鏡のデザインにしたのが山字紋鏡で、春秋末期から前漢前期まで続きますが戦国中期に
盛行します。
湖南省からその70〜80%が出土します。地紋は羽状紋で、その上に3個から6個の山字
が乗っかっていますが、特に四山鏡が多く出土します。字数が少なく字体が太くむっくりしたものが
前期、後期になると字数が多く字体も細くなります。  鈕は1〜4個の弦鈕で、鈕座は円鈕座と方鈕座
があり、縁は素巻辺です。直径は9,5〜20p位が多く33pと言う大型鏡もあります。

菱紋鏡は戦国の中期に出現します。湖南省・安徽省から多く出土します。地紋は羽状紋が殆どですが、
細密雲雷紋もあります。直径は11〜14pのものが多いですが、21,2〜23pの大型鏡もあります。

このデザインは鉤連雷紋がモチ−フと思われ、折畳式菱紋鏡が多くあります。

禽獣紋鏡は、主紋に虎形の獣、狐面と鼠の耳をした怪獣や熊に似た獣から始まり、龍紋・鳳紋・鳥紋
等のデザインがあります。地紋には羽状紋・折畳式菱紋・鉤連雷紋等があります。鈕外や辺縁に

内向連弧紋が見受けられます。直径は10〜14pのものが多く、20〜23pの大型鏡もあります。
蟠ち紋鏡は龍かトカゲか良く分らないものがうずくまり、絡まったデザインで、当初は丸みのある単
線の形ですが秦・漢代には2〜3線で表され様になる他、次第に繋ぎに菱形紋が使われ蟠螭菱紋鏡と呼
ばれるものになって行きます。地紋には雲雷紋が多く使われています。直径は11〜14、15pが多く、
26pの大型鏡もあります。戦国中期から晩期のもので、前漢の墓からも出土します。禽獣紋
蟠ち紋・

彩絵紋等のデザインを見ていますと単なる鏡背の紋とは思われず、一種の霊力を感じます。

連弧紋鏡は戦国晩期のもので、湖南・湖北の前漢前期の墓からも出土します。内向する緩やかな凹面
の細い帯が六〜八個で一周している連弧圏のデザインです。前期の四葉鏡の辺縁のデザイン十二内向
平連弧からか或いは中期の禽獣紋鈕座外の連弧紋から発展したものと考えられます。
八弧圏が多く、
地紋は雲雷紋や渦紋があります。直径は
1215pが多く19pの大型鏡もあります。このデザインの
モチ−フが前漢代の連弧銘帯鏡に継承されていると思われます。

戦国時代から鏡が大量に作られ始めます。これは戦国七雄と言われる様に各地の諸侯の力が強くなる

と同時に、鉄器時代に入り各地で生産力増大を計る為に、青銅器の製造にも力をいれる様になった事
と関係があるのではないかと思われます。一つの権力機構から全国各地の権力機構へと拡大し、各々
が生産所有出来る環境となったからでしょうが、しかし所有出来たのはこの時代も、諸侯とそれを取
り巻く貴族達であったと思います。従って鏡は実用品と言うより威信財としての意味合いが強かった
と思われます。

 戦国末期までの鏡のデザインを総括すると、その多くはやはり青銅器のデザインの思想にそのル−ツ
を求める事が出来そうです。又戦国前期の四葉紋鏡の辺縁に初見される新しいデザイン・内向平連弧
紋は、その後形をかえ中期の禽獣紋鏡、末期の連弧紋鏡、前漢の花弁紋鏡、草葉紋鏡、連弧銘帯鏡や
後漢の連弧紋鏡等のデザインに継承されていると考えます。

 

5,秦・前漢・新・後漢・三国時代

 貨幣は殷と西周初め宝貝が使われたのが初めで、青銅器の貨幣は西周初めからありますがその使用度
は広くは有りませんでした。その後戦国時代に下って、黄河中流の河南北部・山西南部の魏国を中心
に布貨が山東の斉国で刀貨が創出され、北部の燕・趙が倣って刀貨・布貨を並行して鋳造しました。

南方では楚国が宝貝を模した蟻鼻銭を使い、これと並んで金貨の援金を製造しました。西方の秦国で
圜銭と称する穴あき銭を発明しましたが、これが秦国の全国統一の結果中国独特の貨幣の形式にな
りました。製造業の進歩により産業界は革命が起り、商工業は大躍進し国境を越えて物資の交流は激
しくなり、商業の発達に伴って貨幣が広い範囲で使用され、七国の国境を越えた全国的な市場が形勢
されました。秦国の統一はこの気運に乗って成功したと言っても過言ではありません。

紀元前221年、秦の始皇帝は六国諸侯の割拠する状態に終止符を打ち中国を統一、多民族の中央集
権的官僚国家−所謂律令を基にした郡県制国家−を打ち建てました。
しかし秦王朝は、僅か15年
(BC221〜BC206年)と言う短命で終わり、国家モデルの各種制度を完全に発展させたのは
その後を継いだ漢王朝です。前漢(BC202〜AD8年)と後漢(AD25〜220年)があり、
その間に王莽による新(AD9〜23年)と劉玄による短い統治期間があります。

前漢王朝は長安に、後漢王朝は洛陽に各々都を置きました。この時期「漢文化」の重要な内容は漢字
の使用・儒学の崇拝・重農主義であり、国家を運営する主体的な思想及び法則として認められます。

経済と文化の統一は、青銅器にも反映し戦国時代にあった地域的特徴は次第に消失し、青銅器の形式
と規格は統一の方向へ向かいました。秦・漢以後、青銅器の芸術性は大きく衰退します。青銅器は引
き続き使用されますが、刃物は鉄器、日用品は漆器・陶器に取って変わられます。その中にあって青
銅鏡のみ宋代へ至るまで発展を続けています。その事は青銅鏡の持つ意味が単なるカガミではない事
を思わせます。又それ迄の多くの墓は王候貴族のものでしたが、漢代に入り特に武帝時より官僚層ま
で造墓が盛んになります。官営の鋳造工房は尚方と呼ばれ、洛陽・
城・紹興等に有りましたが王候
貴族が使用する物だけを製作しておりました。前漢中期には下級官僚層まで入手出来ましたので、

その頃には民営の工房も有ったと思われます。後漢時期には民営の工房が増加し、民営でありながら
尚方の名を騙るものも出現しております。この事は鏡の需要が増えた事と、製作工房名によって鏡の
持つ価値の相違が有った事を物語っていると思われます。造墓現象とも合せ考えますとかなり下級の
官吏まで、あるいは一般民間人まで鏡が流行していたのではないかと思われます。

銘文等から考えますとこの時代には、鏡は売買の対象になっていたと思われます。

前漢・新・後漢・三国時代に作られた鏡は、紋鏡蟠虺紋鏡花弁紋鏡草葉紋鏡星雲紋鏡

四乳銘紋鏡連弧紋銘帯鏡圏帯銘帯鏡双重銘帯鏡四乳禽獣紋鏡博局鏡(方格規矩四神鏡)

多乳禽獣紋鏡連弧紋鏡(内行花文鏡)変形四葉紋鏡神獣鏡画像鏡菱鳳紋鏡竜虎紋鏡
禽獣鏡
等があります。この期間を通しての各地の墓の発掘が進み、墓の造営時期が明確になって来ま
した。その理由は副葬品の中に年代を特定出来るものがあるからです。土器・紀年銘の入った漆器やせん
・銘文・貨幣等です。貨幣では秦の半両銭、王莽の貨泉を始めとして二十八種の貨幣、武帝の五
が有名です。これらにより鏡の年代観もはっきりして来ました。

 

ここで、@ 洛陽焼溝漢墓 A 広州漢墓 B 満城漢墓 C城漢・三国・六朝銅鏡の各編年を
纏めておきます。

@ 洛陽焼溝漢墓

 河南省洛陽の北郊外にあり、前漢中期から後漢後期までの墓地群です。発掘された墓は225墓で、
その内95墓から118面の銅鏡と9面の鉄鏡が出土しています。

 
             ぺーじ7 洛陽焼溝漢墓・鏡出土状況表・・・へリンク 

A広州漢墓

 秦末に南海尉・趙侘が独立し南越国を建国、前漢武帝は南越趙氏王国を滅ぼし南海等9郡を置いた。
三国期に現在の地名・広州となった、珠江三角州の北方広州市の近郊にあります。

        ぺーじ8 広州漢墓・鏡出土状況表・・・へリンク

漢代の墓が分布するのは65ケ所で、前漢前期・182墓、前漢中期・64墓、前漢後期・32墓、
後漢前期・41墓、後漢後期・90墓が発掘されています。その内鏡が副葬されていた墓数と面数は、

前漢前期・56墓から59面、前漢中期・9墓から14面、前漢後期・12墓から15面、後漢前期・
25墓から32面、後漢後期・25墓から37面です。前漢前期では一墓一面が95
%(53墓)一墓
二面が5
%(3墓)、前漢中期では一墓一面が71%(10墓)一墓二面が21%(3墓)、一墓三面が7%
(1墓)、前漢後期では一墓一面が75
%(9墓)一墓二面が25%(3墓)、後漢前期になると一墓一
面が72
%(18墓)一墓二面が28%(7墓)、前漢後期では一墓一面が60%(15墓)一墓二面が
32
%(8墓)一墓三面が8%(2墓)となっております。時代が下ると共に多数副葬される傾向にあ
ります。広州漢墓群の被葬者の社会的身分は不明ですが、この傾向は鏡が実用品から離れて別の意味
を持ってきた事を表していると思います。1期前半に素鏡が多く出ている理由はよく解かりませんが、
商以降も綿々と存在していたのか、この地域でこの時期に見られる特徴なのか、鏡の持つ意味を考え
る上で興味のあるところです。

 

B満城漢墓

 ≪漢書・地理志≫で、20ケ国の諸侯列国の中で大国の一つと言われる中山国の靖王劉勝を埋葬した、
河北省満城県陵山の頂上付近の岩山を♀形に刳り貫いた一号墓と二号墓の他、その中腹近辺に“王子
墓”と見なされている小規模な18墓を含み、劉勝の家族の墳墓地と認められる前漢中期の満城漢墓
と呼ばれる墓が有ります。一号墓が劉勝の墓で二号墓は劉勝の妻の甕棺墓です。一号墓から一面、二
号墓
から三面の鏡が出土しております。劉勝は武帝元鼎四年(BC113年)に亡くなりました。

一号墓の鏡は、後室の漆塗りの化粧箱(箱は既に朽ちていた)に入っており、直径20,7p辺の厚さ
0,7pの草葉紋鏡です。円鈕、四葉座、座の外側は二つの方形の柵があります。その間に16字の
銘文があり、柵の外には四乳の草葉紋があります。辺縁は16連弧紋です。二号墓からは主室の中の

漆塗りフタ付容器の中から、直径25,4p、厚さ0,15p、辺厚0,8p、三弦紋鈕、円鈕座、匕縁の四
乳獣紋鏡が一面、又棺内の漆塗り化粧箱に入っていた直径18,4p、厚さ0,15p、辺厚0,6p、弦鈕
紋、伏
鈕座、TLV紋は細密の四線式、15字の銘文入りの、方格規矩紋の初見だと思われる蟠璃
紋規矩鏡が一面、甕棺玉衣の左手の中に直径
4,8p、厚さ0,3pの小型の連弧紋鏡が一面出土しまし
た。これは身に付ける携帯用の鏡です。

 

C鄂 漢・三国・六朝銅鏡

 湖北城、現在の湖北省鄂州市、長江中流域の要衝の地。漢代は江夏郡鄂県、三国時代は呉国の都城
でありました。埋蔵文化財の豊富な所で、銅鏡は戦国時代から唐・宋朝まで出土しています。

出土地は鄂城の城の東と西郊から南郊にかけての所です。江西省・江省の鏡との類似が多く、輸入
していたと思われると同時に、当地は銅の産地で漢代・三国時代(呉)を通じ官営がありましたから
当然生産していたのでしょう。また紀年鏡が多くAD169年〜AD266年まで25面有ります。

デザインでは道教の影響を深く受けており、神獣鏡や画像鏡の神や主要人物には道教信仰の神仙や
伝説人物が多いのも特徴的であります。

 

次に城漢・三国・六朝銅鏡の編年をまとめておきます。



ページ10 鄂城漢・三国・六朝銅漢表・・・へリンク

                                  
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紋鏡は戦国中期から続いているデザインですが、前漢晩期墓からも出土します。戦国末期の菱紋
の多いデザインは徐々に無くなり、所謂秦鏡の中に襟状に立ちあがった細い線を持ち細かい地紋の上
に凸線で唐草的な蟠
璃を置くデザインをしています。馬王堆一号墓、三号墓(BC168〜166年
頃)のものは尚、戦国期に近いデザインですが、中山国満城漢墓2号墓(BC104年)の出土品は
後者のデザインをし、かつ方格規矩紋の初見を見ます。又後漢後期の日光方格規矩蟠螭紋鏡に十六
連弧紋と規矩紋が同時に現れています。

花弁紋鏡草葉紋鏡星雲紋鏡は前漢初期流行のデザインですが、戦国前期の四葉紋鏡に初見される
辺縁の内向十二連弧紋が内向十六連弧紋縁となって定着していると思われます。

四乳銘紋鏡連弧紋銘帯鏡圏帯銘帯鏡双重銘帯鏡は、前漢中期から新莽・後漢早期にかけて出土
しますが、これらの銘帯の中に「日光」、「昭明」、「家常富貴」「清白」等の銘文が入っています。

連弧紋銘帯鏡は紀元前1世紀に盛行しますが戦国期の凹面連弧のデザインとは異なり、鈕座外に八連
弧紋帯として現れます。

連弧紋鏡(内向花紋鏡)は新莽・後漢初期から晩期まで出土します。前漢の連弧紋銘帯鏡の銘帯が雲雷
紋帯と交替して成立しました。鈕座は1世紀前半に四葉紋形座が出現し、後半に円座のもの、2世紀
初頭に蝙蝠形四葉形座が加わります。銘帯鏡・雲雷紋鏡・凹面圏帯鏡の型式がありますが、四葉紋形
座・蝙蝠形四葉形座には「君宜高官」、「位至三公」、「長宜子孫」銘頭字句が入っています。

四葉紋形座のものに永平7年(64年)の紀年銘鏡があります。

当時の日本では非常に貴重な鏡とされていました。

博局鏡(方格規矩鏡)は前漢末に出現し、新莽初期の始建国二年銘(AD10年)の禽獣簡化博局鏡
があります。これは方形ではありません。T・V字はデザインされていますがL字はありません。

揃って出るのは始建国天鳳二年銘(AD15年)方格規矩四神鏡です。方格規矩の初見は武帝太初元年
(BC104年)、
満城漢墓2号墓に見出されます。これは蟠螭紋鏡でした。遅くは三国時代の景元四
年(AD263年)の銘のものがあります。日本では方格規矩鏡と言っていますが、中国では
博局鏡
と呼ばれています。この博局のデザインの意味は色々の説がありますが、日時計の目盛盤に由来する
説、漢代に流行した「六博」と呼ばれるゲ−ムの盤説、元々天地を象ったこの様なデザインがあって
ゲ−ム盤にも鏡背にも、又日時計にも使われたと言う説もあります。中国では「
淮南子」天文訓の説
が有力で、宇宙像を表現していると見られています。T・L・V字に付いても諸説があります。日本
では
規矩、即ちVはコンパスで規と言い、T・L字は定規と曲尺で矩と言い合せて規矩と称していま
す。この字の解釈は駒井和愛氏の説と異なりますが、彼の「天円地方」説は肯首出来ます。即ち
『内
区外側に巡る円形の帯は天を表し、中央の方格は地を表す「
天円地方」の思想を現し、規矩は方位の
観念を表現し
たもので、矩は方形を描くもの、規は円を描く道具で陰陽の象徴とも見られ、陽なる円、
陰なる方格と合せて陰陽合体を示す』と言うものです。

方格規矩のデザインには、動物形のデザインとの組み合わせが多く見られます。普通見られる例では、

方格規矩四神鏡と言われるもので、方格の各面は中央にT・L字形が入る為に二分され、四面で計八
つの隙間が出来そこに四神と、他に四種の動物が納められています。その中に多くの場合共通して見
い出せる、龍・虎・鳥・蛇の絡んだ亀の像がその主役で、これが五行説で東西南北に割り振られた

青・白・朱・玄の四色の名を冠して呼ばれた、青龍・白虎・朱鳥・玄武です。

四神と対になる動物=瑞獣は、時の君主の徳によって現れ方が違うとされています。

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このデザインの方格規矩四神鏡は、前漢末から王莽の新の頃には型式が完成しています。王莽代には
直径20cm前後の大型で精緻なものを作りますが、次第に簡略化され直径も10cm以下に小型化されま
す。
規矩鏡としては、その他に禽獣紋・幾何学紋・T、L、V字の何れかが欠けている禽獣簡化紋・
幾何学紋等があります。これらは前漢晩期・新莽期から後漢晩期まで出土します。

神獣鏡は後漢中期から現れ、後漢後期・三国・六朝期頃盛行します。神像については、禽獣鏡のデザ
インとして後漢前期の尚方作多乳禽獣鏡の中で、五乳四神鏡・七乳四神鏡として現れています。

当初は四神とは青龍・白虎・朱鳥・玄武でしたが、後漢中期・三国・六朝期になると神人としてデザ
インされます。西王母・東王公などの神仙や瑞獣を浮彫りで表現したデザインです。周縁の断面形に
よって平縁神獣鏡・斜縁神獣鏡があり、平縁神獣鏡の多くは外区に細かい浮彫り表現の飛禽走獣から
なる文様帯があることから画紋帯神獣鏡とも呼び、また内区外周に半円形と銘を入れた方形とを交互
に配した文様帯があるものは半円方形帯神獣鏡とも呼びます。あるいは、神像や獣像の形状配列によ
って環状乳・対置式・同向式・重列式に大別する事も出来ます。斜縁神獣鏡は4ないし6個の乳で内
区を区分し、その間に西王母・東王公および獣を置いたもので、頭を鈕に向けて放射状に配置するこ
とが多いが、同向式の配置をとるものもあります。3世紀前半に平縁神獣鏡や画像鏡の流れを受けて
出現します。画像鏡は図像文様を上面の平らな浮彫り風に表現し、それが後漢の画像石に似ていると
ころから名付けられました。四神や龍虎などの瑞獣、西王母と東王公その他の神人、呉王と伍子胥な
どの故事、車馬、歌舞の場面などをモチ−フとする事や図像の横に「東王公」や「西王母」などと記
した題記を入れるところも画像石と共通します。乳によって主文を4分割し、鈕を挟んで図像を対置
させたものが多い。縁部は獣帯文や流雲文のある平縁から鋸歯文や波文をもつ三角縁まである。図像
文様の構成やその一部は浮彫式・獣帯鏡と共通し、神獣鏡とも共通するところがあります。大部分は
直径
20cm前後の大型品です。2世紀に主に中国河南で製作し、かって浙江省紹興から多量に出土し
紹興鏡と呼んだ事もあります。神獣鏡のデザインは道教と深い関係がある様です。道教の鬼邪を駆り
避ける法器の中に鏡がありました。それは鏡の神秘的な効能は二つの面から来ており、その一は古代
中国の伝説に「鏡は一種の天意の象徴で、鏡を失えば天下を失う」「天鏡を握れば天下がとれる」と言
う事。その二は鏡が物を映し出せると言う効能で、そこから「人の害をなす魑魅魍魎は、鏡の前では
正体を隠す事が出来ない」と言う事です。葛洪の「抱朴子」登渉篇の中で「妖魅は人の姿を借りて人
の目をくらます。しかし唯、鏡中においてのみその真形を易うるに能わず」と述べています。だから
山に入る人は大きな鏡を背中にぶら下げれば「即ち老魅も敢えて人に近づかず」とされ、鏡が天意を
備えたものであれば妖怪に勝つ効果があると考えました。そこで鏡に「神」的な性質を与え、これを
称して「照妖鏡」と呼び、それを用いて鬼邪を駆逐し避けるために、道士達はそれを道教の宝の嚢の
中に収め、丹を練る時に鏡を掛け、方術を行う時にも鏡を掛けました。鏡はそう言う使われ方をした
のです。

人々は神獣鏡・画像鏡に道教的効能即ち、意味を持ちました。又、道教と楚の文化は密接な関係にあ
ります。これが呉の文化に継がり、画紋帯神獣鏡・画像鏡として三国・西晋代へと発展して行きまし
た。この両者のデザインを我が国では三角縁神獣鏡に取り入れ、古墳時代に入り重要な意味を持つ様
になりました。中国の永く膨大な鏡の編年と、かつそのデザインの持つ意味をも考え様としましたが、
残念ながら全体を通して各期の鏡の持つ意味の総括が充分出来ておりません。
      

    以上

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出典・参考文献

・講義プリント・ノ−ト                        古瀬 清秀                         2002

・日本考古学辞典               田中 琢・佐原 真               2002

・古代東アジア 青銅の流通                     平尾 良光                       2001

・三角縁神獣鏡の時代                          岡村 秀典         吉川弘文館      1999

・よみがえる漢王朝 図録                                         読売新聞社      1999

・中国六千年の秘宝展−上海博物館コレクションから                                      1994

・道教と中国文化                              兆光  坂井 祥伸             1993

・中国銅鏡図典                                                   文物出版社     1992

・中国江省文物展 図録                                          栃木博物館     1992

・中華人民共和国古代青銅器展 図録                                               1976

・長沙馬王堆一号墓 (上)                     文物出版社日本語版     平凡社     1976

・守屋孝蔵蒐集  方格規矩四神鏡 図録                              京都博物館     1970

・中国の歴史 (上)                           貝塚 茂樹            岩波新書     1964

・紹興古鏡                                梅原 末治          桑名文星堂     1939

・世界歴史大年表                              鈴木 俊二 井上 幸治 宮城 良造     1936

・洛陽焼溝漢墓                                中国科学院考古研究所              1959 

・広州 漢墓  (上)                           中国社会科学院考古研究所

漢・三国・六朝銅鏡                                      文物出版社

・満城漢墓発掘報告書                          中国社会科学院考古研究所        1980

 

 

 

 

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